

仁王門・薬師堂
昔々、当地は磐梯山に住む魔物によって常に霧が立ち込めていた。魔物を退治したのは弘法大師で、人々の無病息災と五穀豊穣のため、会津に5つの薬師をつくることにした。
しかし朝廷から帰途の命が下され、弘法大師はやむなく帰朝してしまう。任務を継いだのが、慧日寺を開創した徳一である。
徳一は会津地方に5つ(中央+東西南北)のお堂を立て、それぞれに薬師を安置した。湯川村の勝常寺を中央薬師とし、慧日寺は東にあたる。
薬師仏が安置されたのは金堂だ。治病延命、産育、子孫繁栄などを願う人々が訪れ、金堂は民間信仰の中心になっていく。
しかし、慧日寺の薬師仏は静かに安置されてきたわけではない。創建当時からの御本尊は、南北朝時代頃までに失われたと考えられている。火災にも幾度となく遭い、喪失と復興を繰り返した。
摺上原の戦いでは戦火に耐えたものの、寛永3年(1626年)の火災で金堂は消失する。12年後、跡地に建てられたのが薬師堂である。
明治初年の廃仏毀釈にあたっては、磐梯神社の御神体が薬師堂に遷された。「磐梯神社」としての役割を担うことで、消失を免れたのだ。
しかし明治5年(1872年)の火災で、再びお堂が消失してしまう。このとき薬師仏は仏頭のみ残ったが、数年後には完全消失した。
現在の薬師堂は、地元の篤い信仰により、明治22年(1889年)に再建されたものだ。復元された金堂の脇に静かに佇み、春には桜が咲き誇る。
薬師堂手前には、立派な仁王門がある。江戸時代後期に、現在とは異なる場所に建立された。
薬師堂が消失したときには、磐梯神社の御神体が安置されたこともある。
3度の移築を経て、現在の場所に落ち着いた。平面規模が大きく、お堂と見間違う荘厳なつくりをしている。


恵日寺本堂・山門
慧日寺が廃仏毀釈で廃寺となった後、教えを引き継いだのが当時の観音院だ。元禄15年(1703年)に建立された寺院で、慧日寺の塔頭(脇寺)の役割を担っていた。
この場所を利用して慧日寺の復興がおこなわれ、明治37年には「恵日寺」の寺号を取り戻した。大正2年には堂塔が修復され、「磐梯山恵日寺」として新たな歴史を刻み始めた。
現在の恵日寺は、金堂や中門など史跡群の南側にある。駐車場や資料館から近く、目に付きやすい場所だ。
ひときわ目立つ山門は、江戸時代に再建されたものだが、古くは平将門が寄進したと言われている。

徳一廟
慧日寺を開創した徳一は、奈良で法相宗を学び、会津地方で広く布教活動をおこなった。会津と近隣に仏教文化を広めた一人で、福島県内に数多くの関係寺院がある。
慧日寺跡を北に向かうと、徳一の墓と言われる「徳一廟」に辿り着く。
屋根石を含め5層構造の石塔で、安山岩でつくられている。大雪で倒壊したさい、軸部の納入孔から土師器の甕が見つかり、徳一没後間もない9世紀代のものであると推測された。
現在は保存のために周りを覆うお堂が建てられている。扉から中を覗き込むと、中央に石塔が見られる。
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