笹川のあばれ地蔵 - 郡青ひなたweb
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笹川(ささがわ)のあばれ地蔵

天性てんしょう寺では、毎年11月3日の秋季例大祭前日に、「あばれ地蔵」という一風変わった行事が行われる。地蔵を地面に打ち付けるこの行事の内容と魅力を紹介する。

撮影協力:天性寺

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取材ご協力:笹川のあばれ地蔵保存会
写真:木村裕輔、熊川紘一

天性寺
住所:〒963-0102 郡山市安積町笹川字御所前28
特集のあばれ地蔵は、11月3日文化の日の前日に実施。

本稿の歴史的記述について
文献により歴史認識に違いがある部分がありますが、本稿では取材対象者及び天性寺文書を基にした郷土史上の認識を優先しています。

※情報提供ご協力のお願い※

 笹川のあばれ地蔵で取材をさせていただきました皆様、このたびは掲載が遅くなりましたことをお詫び申し上げます。取材から時間が経過しているため、変更点等お分かりになる点がございましたら、コメント欄、またはお問い合わせフォームより、ご教示いただけますと幸いです。
 また、観光客の方で実際にお出かけになる場合は、郡山市の観光課、観光協会等へ日程をご確認ください。特に新型コロナウイルスの流行以降、行事自体を開催していない場合があります。当サイトは、性質上、最新の観光ガイドにはなれませんので、ご容赦ください。

単なる地蔵曳きにとどまらない、神仏習合だからこその迫力ある行事

あばれ地蔵のお地蔵様は、普段地蔵堂の中に保管されている。
天性寺。応永27年(1420年)開山建立。明治43年(1910年)の大火で焼失するが、大正2年(1913年)現在地に再建された。

 安積(あさか)町南部笹川地区。ここは須賀川市との境界に程近い地域である。この一帯は室町時代に奥羽統治の拠点としての役割を果たした篠川(ささがわ)城を中心に、篠川御所が開かれていた。統治の中心となった人物は、鎌倉公方・足利氏満の子、満貞(みつさだ)だ。応永6年(1399年)に下向し、篠川公方して約40年間在留することとなったのだ。

 この「御所」という名称だが、足利将軍家の当主やその連枝には御所号に匹敵する称号が与えられていた。そのため満貞は「篠川御所」「篠川公方」と称され、その邸宅も御所と呼ばれていた。(※近年の研究では篠川公方は満貞の兄・満直であるという見方が一般的である。弊誌では天性寺文書を基にした郷土史上の認識を優先する)

 古くからの歴史がある地域だけに、笹川周辺には多くの史跡がある。現在の熊野神社や「あばれ地蔵」の舞台である天性寺も、満貞によって建てられたものだ。満貞は曽祖父・足利尊氏が開基した天龍(てんりゅう)寺を「天」と「龍」の字に分け、天性寺と龍性(りゅうしょう)寺の二寺を開基した。また篠川城の守護神とするため、熊野権現(明治2年に熊野神社に改称)も勧請している。神仏習合では神社とお寺を一体と見なしており、熊野神社と龍性寺はその位置づけである。龍性寺は住職の不在により明治6年(1873年)になくなってしまったが、あばれ地蔵はもともと熊野神社秋季例大祭の一部として龍性寺で生まれ、受け継がれてきたものなのだ。

あばれ地蔵の誕生と特徴

あばれ地蔵は1グループ10人程度で天性寺をスタートし町内を回る。各自が荒縄の先端を持ち、「家内安全、交通安全、わっしょい、わっしょい」と掛け声を上げながら、地蔵を思いきり地面に叩きつける。
本文でも言及しているとおり、大地に打ち付けることは鎮魂を意味すると言われ、あばれ地蔵もその流れを汲んでいる。

 さて、その始まりを詳しく見ていこう。足利満貞がこの地を治めていた頃、逢瀬町の河内(こうず)に住んでいた徳兵衛(とくべえ)良房(よしふさ)という豪族が、満貞に仕えるために移り住んできた。当時は満貞の奥羽統治を支援するため、周辺の豪族が篠川へ集まってきたのだ。徳兵衛は信仰していた地蔵尊を共に捧持してきており、後年木材で造られた地蔵を龍性寺に奉納した。
 さらに後年、時期は定かではないが、熊野神社秋季例大祭の前日に村内を回りながら祭礼の無事を祈る際、龍性寺の地蔵を共に連れて回った。するとその後一年病気災害がなく、平穏に過ごせたのだという。木造の地蔵を荒縄で結んで町中を曳き回す伝統は、このことから生まれた。この頃の地蔵は二尺ほどの大きさであったということで、現在使われているものと比べるとやや大きかったものの、伝統は脈々と引き継がれてきたのである。

 あばれ地蔵が単なる曳き回しと大きく違うところは、荒縄で結んだ地蔵を思いきり地面に叩きつけるところだろう。その激しさ故、「あばれ」という名が冠されているのである。これは先に紹介した熊野神社と龍性寺との関係によるところが大きい。神仏習合であることから、このようなスタイルになったのだと考えられている。大地に打ち付けることは鎮魂の意味があるとされている。

子供達が中心となる地域参加型の行事

6体の地蔵が祀られ、笹川のあばれ地蔵の碑が立つ。実際に行事に使われるのは木製の地蔵で、地蔵堂の中に大切に保管されている。
天性寺を起点に笹川周辺の史跡を巡ってもらおうと、駐車場に案内看板が建てられた。詳しくは次の特集へ。

 あばれ地蔵の行事は、現在も毎年11月3日の熊野神社秋季例大祭前日(2日)に行われている。午後5時から出発式を行い、まずは天性寺にて御札のお清めや焼香をする。その後各グループに分かれて、家内安全・交通安全・商売繁盛を願いながら9時頃まで町内を曳き回す。
 かつては日付が変わる頃まで曳き回していたこともあったようだが、子供達が担当することもあり、出発を早くする工夫をしてきた。
 担当は笹川育成会と西笹川育成会の子供達で、それぞれ4体、2体を受け持つ。地蔵1体につき小中学生10~15名が付く。地元永盛(ながもり)小学校、小原田(こはらだ)中学校、安積中学校の生徒を中心に、その友達や先輩後輩なども混ざって大変賑わう。もともとは男子だけが担当していたが、数年前から女子も加わり、より華やかになった。長い伝統ゆえに、女子を入れることには否定的な意見もあったようだが、少子化や時流に対応する中で決断がなされた。
 現在は参加を希望する子供は他地域であっても原則受け入れており、広く門戸を開いている。保存会では「地域参加型であること」を一番のポイントとして挙げているが、同時に「できるだけ多くの子供達に参加してほしい」との想いも強い。

 外部への広報にも積極的だ。まずは保存会でチラシを作り、地元への徹底的な認知を目指した。子供達が夜に出歩く行事であるため、保護者に対して情報を詳しく開示することで理解を得た。当日他地域から参加する子供には、パンフレットを持って帰ってもらうことで、保護者にも興味を持ってもらうことができた。新聞などメディアにも広報し、その結果地元だけではなく、安積町全体の行事として認知され、平成26年には郡山市の「まちづくりハーモニー賞」を受賞するに至った。
 さらに、認知度が上がるにつれて見物客が増えてきたことから、新たな工夫も行った。デモンストレーション用の地蔵を1体残しておき、天性寺で見物客に体験してもらうのだ。地蔵を地面に叩き付けるという特殊さゆえ、以前から「参加型にしてほしい」という要望が多くあったのだという。同時に「明るくしてほしい」という要望にも応え、スポットライトを当てるようになった。見物客の多くが写真や動画を撮るため、嬉しい配慮である。写真や動画がSNS等を通して拡散されれば、さらなる盛り上がりも期待できる。

 今後は「少子化の中で子供達にいかに魅力を伝え、伝統を継承していくか」がテーマだ。永盛小学校や安積第三小学校では笹川の民話を社会科の授業の中に取り入れており、子供達が大きくなった時に参加の希望を示すことも多いようだ。学校や公民館、保存会などが一体となって地元の魅力を子供達に伝えていく。そして大人になったら、保存会など運営側に回り、次代へ継承していく。笹川のあばれ地蔵は、そういったサイクルが機能している好例であるように思う。

 曜日に関係なく、連綿と昔からのスタイルを守り通している行事は、今では少なくなってしまった。歴史と人々の想いを感じながら、この珍しい行事を体感してみよう。
 なお、天性寺には笹川の史跡を巡る「御所巡り」用の看板も建てられた。今後地域全体がより賑わいを見せることだろう。

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