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篠川御所周辺を巡ってみよう

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本稿の歴史的記述について
文献により歴史認識に違いがある部分がありますが、本稿では取材対象者及び天性寺文書を基にした郷土史上の認識を優先しています。

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篠川(ささがわ)神社

下地図番号①

 足利満貞が応永27年(1420年)に篠川城から移鎮した神社。明治2年までは御所大明神と呼ばれていた。満貞は、大国主の神に誓い、武運や住民の興隆を祈願した。天性寺裏手に位置する。

笹川高石坊(たかいしぼう)石像供養塔

下地図番号②

 郡山市の重要有形文化財に指定されている石像供養塔。鎌倉~室町時代に建てられた板碑が23基ある。天性寺から東北本線の踏切を渡り、線路沿いを北へ数分、一本東の道へ入る。

熊野神社

下地図番号③

 足利満貞の時代、応永年間に龍性(りゅうしょう)寺建立と共に、篠川城の守護神とするために勧請された。当時は熊野権現と呼ばれ、明治2年に熊野神社へ改称された。あばれ地蔵はここの秋季例大祭の一部である。

旧一里塚跡供養碑

下地図番号④

 熊野神社敷地内には「旧一里塚跡供養碑」も建てられている。これは旧国道4号(県道355号)である仙台松前道の一里塚跡に置かれていたもの。先祖が信仰を示した供養碑を地元で供養し続けたいとの地域の人々の願いを受け、この地に安置された。天性寺から東北本線の線路を挟んだ向かいにある。

左から、大乗妙典(だいじょうみょうてん)一字一石塔、題目供養碑、足尾山碑。

東舘(ひがしだて)稲荷神社と篠川城跡碑

下地図番号⑤

 足利氏下向以前の篠川城は「佐々河城」と書き、有力豪族の根拠地であった。正応5年(1292年)から明徳年間(1390年頃)に建てられた石造供養塔43基が確認されている。その後足利氏が下向し、応永6年(1399年)足利満貞によって篠川御所が開かれ、満貞は篠川公方となる。その後永享12年(1440年)に石川持光(もちみつ)との戦いに敗れるまで栄えた。天文20年(1551年)に須賀川・二階堂氏の家臣である須田佐渡守頼隆(さどのかみよりたか)が御所跡に東舘を構えた。現在の東舘稲荷神社はこの須田氏の氏神様である。
(※近年の研究では篠川公方は満貞の兄・満直であるという見方が一般的である。弊誌では天性寺文書を基にした郷土史上の認識を優先する)

荒池(あらいけ)と水神社

下地図番号⑥

 荒池は応永年間に足利満貞により造られたとされる。市内の溜池の中では最も古い年代のもの。水神社の創建時期は不明だが、石碑に応永年間の文字が刻まれていることから、その頃の建立であると考えられている。ここは天性寺から歩いていくには少々遠いので、車での移動となる。

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