札所21番~30番 会津美里町 - 郡青ひなたweb
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会津三十三観音 札所21番~30番 会津美里町

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本稿の歴史的記述について
本稿の記述は、現地案内看板の内容を最優先とし、参考文献として歴史春秋社が発行する以下の書籍を参照しています。

<参考文献>
歴史春秋社編(2018).『会津三十三観音巡り』.歴史春秋社
藤田定興(2011).『神と仏の信仰』.歴史春秋社,【歴春ふくしま文庫41】

地元郷土史家の方、史談会の方で、お気づきの点がありましたら、下部コメントフォームよりご教示いただけると助かります。

なお、本稿では御詠歌に解釈を加えていますが、私は学者ではありません。訪れる一人一人が、自分なりの解釈で楽しむのが良いだろうと思います。あくまでも私の主観であることをお断りしておきます。また、御詠歌はなるべく歌額記載のまま記述するよう心がけています(分かりづらい部分は漢字にしています)。ガイドブックや書籍と異なる部分もありますが、ご了承ください。

21.左下さくだり観音

岩の斜面に寄りかかって立つお堂
三層構造の懸造
御詠歌

札所21番から会津美里町に入る。町域を東部から西部、北部とめぐるイメージだ。まずは東部・左下り観音堂へ。

会津若松から国道121号で南下すると、阿賀川の対岸(西側)が会津美里町だ。県道23号高田上三寄線に入り西へ向かうと、間もなく「左下観世音入口」の看板が見えてくる。

県道沿いに駐車場があるが、ここから歩くとかなり大変だ。狭くて急だが、参道を車で登っていける。1キロほど先の山中にも駐車場が設けられている。

山中の駐車場からは徒歩で山を登る。勾配は緩やかで、時間も10分足らず。気負う必要はない。のんびり自然を楽しみながら歩こう。

観音堂を初めて訪れる人は、インパクトのある見た目に心惹かれるだろう。会津三十三観音を紹介する書籍やWebサイトでも、大きく取り上げられることが多い。

岩の斜面に寄りかかるように、木で組まれた観音堂が立つ。山や崖にもたれかかる建築方式を「懸造かけづくり」という。当観音堂は三層構造の懸造で、清水の舞台を彷彿とさせる。緑の葉が建物に降り注ぐように見え、まるで芸術作品だ。

建立は建長7年(830年)、徳一大師による。当時は修行を行う前に籠るお堂(行堂ぎょうどう)として使用された。
延文3年(1358年)には、葦名氏の家臣である富田祐義によって大規模な修繕がおこなわれた。
その後の経過は不明だが、江戸時代までに回縁まわりぶち(回廊上の縁の部分)がつけられ、現在の姿になったとされる。

ご本尊は聖観世音菩薩。石造の秘仏も安置されており、「頸無観音」と呼ばれている。

御詠歌

さくだりは岩にそびえてかけつくり いつも絶えせぬみねの松風

観音堂から開ける景色はすこぶる良い。建物の美しさだけでなく、お参りして気持ちの良い場所だ。

大沼郡会津美里町大石東左下り(Google Mapでは1-1)

※ガイドブック等では「会津美里町大石字東左下り1173」と記載されているが、該当する住所を見つけられなかった。県道沿いに看板が目立つため、「東左下り」を目指せば問題ない。

22.相川観音

御詠歌

左下り観音から県道23号高田上三寄線を西へ2キロほど、田んぼの中の道へ入る。あたりには小さな里山が点在し、農村の静かな風景が広がる。相川集落に向けて横道を進み、小山の麓が相川観音堂の入口だ。お堂には急な石段を上らなければならない。

お堂の開基は不明だが、もとは北東800メートルほどの山中に建てられていた。仏像の損傷や堂宇の荒廃がひどかったため、巡礼者の高橋宗元、吉川浄雲が中心となり浄財を募集。宝永6年(1709年)から享保2年(1717年)の間に、仏像(現在祀られている十一面観世音)を補修し、現在地に再建した。

観音様は「いぼ観音」とも呼ばれ、タコの絵馬を奉納するとイボが取れるという言い伝えがある。現在でもタコの絵を奉納する人がいるようで、訪問の際、お堂に奉納されたタコの絵が見られた。

御詠歌

朝日さす夕日かがやく相川の 月もろともに出づる御手洗みたらし

お堂の手前に、参拝者を迎えるみたらしがある。風景の描写も美しい句だ。

大沼郡会津美里町氷玉字前山丁(Google Mapでは5)

※ガイドブック、パンフレットとも住所がはっきりしないが、相川集落を目指すと良いだろう。集落の里山を階段で上ったところに観音堂がある。

23.高倉観音

長い石段を上るお堂
御詠歌

高倉観音は、相川観音堂から北西へ2キロほど、本郷市街地の外れにある。JA会津よつば食彩館の裏手だ。
観音堂があるのは小高い山(丸山)の中腹で、ここでも長く狭い階段を上らなければならない。石段は約200段あるようで、足腰が鍛えられる。

祀られる観音像(十一面観世音菩薩)は、後白河天皇の第2子・高倉宮以仁王たかくらのみやもちひとおうが、重臣・長澤常春に下賜したもの。当時は平家討伐の軍を挙げた頃で、観音像はお守りであった。
常春は観音像を「高倉観音」と称し、丸山に奉安した。

創建当時は丸山の西山麓にお堂が設けられた。正保年中の1646年頃に西南山麓に移され、元文4年(1738年)には僧・道栄が南面中腹(現在地)に移転した。

道栄は景勝地としてこの場所を選定したようだ。現在も連なる山々を見渡せる美しい場所である。

御詠歌

高倉は寶を積し山なれば 人の願いをみたす高倉

宝を山のように積み上げた倉と、高倉の観音様をかけているのだろうか。

大沼郡会津美里町字丸山乙(Google Mapでは丸山95)

※ここの住所もはっきりしないが、入口の石段はJAの裏手にある。

24.関山観音

この急な石段を上らなければならない
御詠歌

関山観音には、元来た道を戻る形となる。途中で県道131号下郷会津本郷線へ右折し、両側に山を見ながらしばらく走る。(この県道を延々と辿れば、大内宿だ)

「関山」の標識に従い集落に入ると、間もなくで観音堂入口だ。付近はかつて下野街道の宿場として賑わった場所である。入口は家並みに溶け込み、注意していないと見過ごしてしまうかもしれない。

観音堂は集落を見下ろす山の中腹に建てられている。参道の階段はかなり急だ。高倉観音ほど長くはないものの、58段を上る。

祀られている観音様は、もともと上小松村の護仏であった。村が関山の集落に合併したことで、集落全体の護仏となる。
創建当時は、集落から離れた平地にお堂があった。寛政2年(1790年)に集落を見下ろす山腹を整地し、移設した。

ご本尊は十一面観世音菩薩。徳一大師が会津各地に寺院を建立したときに造られたと言われる。

御詠歌

散る花を止むる氷玉ひだまの関の山 雲降り登る道は一筋

現在も、雲降り登るイメージにぴったりの場所だ。

大沼郡会津美里町氷玉字関山

※ガイドブックや書籍には「関山乙381」と書かれているが、私には見つけられない。入口の地名は「上小松乙」。現在の県道131号は集落をバイパスしている。県道沿いに案内看板がある。

25.領家りょうけ観音

御詠歌

札所23番~25番にかけては、一つひとつの距離が離れている。領家観音堂は県道23号会津高田上三寄線を高田方面へ向かう途中にある。田んぼと住宅が混在する風景の中、左手に観音堂が見える。
目印は、県道上に立つ「手打ち十割そば 花扇」の大きな看板だ。手前の細道を入るとすぐにお堂に着く。

創建は建長元年(1249年)、美濃の僧・常延による。寛文年間(1661年~)には僧・尊益が衰退した寺を再興した。

現在の観音堂は、その後天保2年(1831年)に再建されたものだ。十一面観音菩薩をご本尊とする。

御詠歌

朝日さす夕日かがやく両池の 大悲のひかり有明の月

かつて付近に隣村と共用する池があったことから「両池」、そこから地名の領家。「大悲」は仏の慈悲のことだろう。

大沼郡会津美里町藤家舘字領家(番地は不詳)

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