祖霊鎮魂の歴史ある祭礼 | 会津若松・高野山八葉寺の空也念仏踊り - 郡青ひなたweb
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祖霊鎮魂の歴史ある祭礼 | 会津若松・高野山八葉寺の空也念仏踊り

会津には「高野山」を冠する寺院があります。会津盆地の最奥、旧河東かわひがし町にある高野山八葉寺はちようじです。河東町の町域は盆地と山地をまたぐように広がっており、八葉寺のある冬木沢地区は山地の入口に位置します。高台から見る盆地は美しく、遠く市街地と山の稜線が見渡せる場所です。会津盆地の鬼門にあたる北東の果てに位置することから、古くからあの世とこの世を繋ぐ霊場として信仰を集めてきました。

この場所に空也上人(以下、敬称略)が八葉寺を創建したのは、平安時代中期のことです。空也は行き倒れた亡骸を会津一円で集め、寺院で供養しました。八葉寺が「祖霊供養の場」として信仰され続けてきたのは、会津人の遥か祖先が眠っているからです。お盆前の参拝は「冬木沢詣り」と呼ばれ、多くの人が先祖を迎えに訪れます。

冬木沢詣りの期間中、8月5日には念仏踊りが開催されます。空也が京都で始めた鎮魂の踊りで、主に中京地区で大切に保存されてきました。冬木沢の踊りは東京の念仏踊りの会から受け継がれ、地区の檀家を中心に大切に継承されています。

この記事では2013年の8月に取材した空也念仏踊りを、写真と動画を交えて紹介します。華やかな祭礼とは一線を画す信仰心が強く現れた伝統芸能には、見る者の心を強く惹きつける魅力があります。仏都会津だからこそ味わえる、夏の情緒をお楽しみください。

当記事執筆・研究の参考文献
『会津高野山八葉寺 冬木沢詣り』.八葉寺永世兼帯 金剛寺,平成19年8月.

※注:本記事の歴史紹介は、参考文献の記述を優先するものとし、史実に関する論争は望みません。

古くは会津の中心?河東町に創建された八葉寺とは

郡衙が置かれていた河東に平安時代に創建された

冬木沢から見下ろす会津盆地。現在も変わらず眺望が良い。

八葉寺は平安時代の964年に空也によって創建されました。奥州で布教の旅を続けていた空也は、眺望の良い冬木沢の地に霊的な力を強く感じ、創建を決意します。河東は会津盆地の北東にあたり、古くからあの世とこの世を繋ぐ鬼門として信仰を集めてきました。元来土地の力がある場所だったのです。

河東は政治の中心でもありました。空也が八葉寺を創建した頃には、河東町郡山に郡衙ぐんが(郡役所)が置かれていたようです。奈良時代には耶麻郡、大沼郡、河沼郡がまだ分かれておらず、「会津郡」という一つの郡を形成していました。河東はその中心として機能し、郡が細分化した平安時代以降も変わらぬ役割を果たします。政治の中心に近いからこそ、人々が集まり、信仰も集めやすかったのでしょう。

八葉寺という名前には空也にまつわるエピソードがある

水が湧き出る空也清水。後ろに祀られているのは水天様。

創建当初、空也は水を掘り当てようとしました。これは背負ってきた阿弥陀三尊にお供えする閼伽あか水を得るため、そして浄水の不足に苦しむ周辺住民に分け与えるためでした。空也が独鈷杵とっこしょ(法具)をひと突きしたところ、たちまち泉が湧き出し、やがて池になったと言われています。池から八葉の白蓮が生じたのを見て、建立した寺院に「八葉寺」の名がつけられました。

現在も仁王門をくぐると小さな池と空也清水が迎えてくれます。池は八葉寺を象徴する景色の一つです。

遺骸を弔い続けた空也の行動が冬木沢詣りに繋がった

茅葺き屋根の阿弥陀堂(本堂)。本尊は現在秘仏となっている。

空也は民衆の救済を一番に掲げる高僧として知られています。会津に来たのは晩年でしたが、民衆のための活動を欠かしませんでした。近在に打ち捨てられた遺骸を見つけては八葉寺に持ち寄り、丁寧な供養を続けます。この活動が知られることで、「会津人の祖先は冬木沢に鎮まっている」との信仰が生まれたのです。御霊迎えの行事として室町時代頃から「冬木沢詣り」が定着したと言われ、現在もお盆前には多くの檀信徒が八葉寺を訪れます。文化継承の観点から、2000年には「国指定早急に記録すべき重要無形文化財」として冬木沢詣りが指定されています。

時代と共に伽藍が整いお参りの手順も確立された

阿弥陀堂の隣りにある空也堂。空也念仏踊りはお堂の前で奉納される。

長い歴史を誇る八葉寺ですが、創建当時の姿が現在まで残されているわけではありません。天正年間(1573年〜1592年)の伊達軍による会津侵攻では大きな被害を被り、建物が消失しました。(阿弥陀堂は半焼との説もあり)年代は不詳ながら蒲生氏郷の時代に再建され、仁王堂も建立されます。その後、時代とともに伽藍が整っていき、現在の姿に近づいていきました。会津が大きな被害を受けた戊辰戦争のときにも、八葉寺が巻き込まれることはなかったようです。

現在のお参りの手順が確立されたのは、松平氏の時代だと言われています。祖霊供養の霊場として「会津高野山」と呼ばれるようになり、会津一円からの信仰を集めるようになったのです。祭礼期間も旧暦7月1日〜11日に定められ、後に新暦になったことで8月1日〜7日に固定されます。

八葉寺を創建した空也と八葉寺における念仏踊りとは

空也は京都・六波羅蜜寺の建立でも知られる高僧

空也念仏踊りの始まり。手前が空也役の導師。職衆と呼ばれる人達がお供につく。

空也は日本で初めて「南無阿弥陀仏」と唱える称名しょうみょう念仏を実践した僧として知られています。若い頃に全てのお経を読解したことで、人々のために念仏を唱える必要性を確信しました。これが救済活動を行う理念となり、背中に阿弥陀像を背負いながら各地に仏教を伝え、同時に人助けを実践します。30代前半は東北で、その後は京都周辺で活動を続けました。951年に六波羅の地に建立した西光寺(現・六波羅蜜寺)は、遺骸供養の拠点となった寺院です。鎌倉時代につくられた「空也上人立像」が所蔵されていることで、現在も広く信仰を集めています。

活動は興隆を極めましたが、空也は名声を嫌い、京都は俗弟子に託して再び東北へ旅立ちます。旅の中で会津を訪れ、冬木沢の地に漂う霊気と出会うのです。堂宇を建て、972年に亡くなるまで遺骸供養と民衆のために活躍しました。

長年途絶えていた念仏踊りを引き継いだ

一般的に「念仏踊」として認識されている円形のフォーメーションは祭礼後半に登場する。

念仏踊りは「南無阿弥陀仏」と唱えながら太鼓や鉦を打ち鳴らし、独特のリズムで踊る祈祷の方式です。空也が京都の東市ひがしのいちや四条の辻などで、鎮魂のために行ったのが始まりだと言われています。後に一遍が踊り念仏を行いながら全国を旅したことで、広く知られるようになりました。

空也入滅の地である八葉寺でも、念仏踊りが受け継がれてきました。ただし現在まで脈々と継承されてきたわけではなく、早い段階で途絶え、なかなか復活には至らなかったようです。

復活の芽が出たのは大正時代です。東京・神田や横浜の人々によって結成された「空也光勝会」のメンバーが八葉寺を参拝、空也堂の前で空也念仏を奉納するようになりました。会は毎年祭礼期間に訪れては、踊りを奉納します。これに刺激を受け、冬木沢の人々の間でも念仏踊り再興の機運が高まり、大正11年に「空也光陵会」を正式発足する運びとなったのです。

その後関東大震災で東京の「空也光勝会」が壊滅的な打撃を受けたことで、八葉寺での奉納は「空也光陵会」に引き継がれます。八葉寺地区の檀家から導師(空也役)が選ばれ、踊りの構成員も村内の人々のみとなりました。信仰を守るため、そして村を代表する伝統行事を後世に伝えていくため、大切に継承されながら現在に至ります。

独特の節回しが特徴的で耳に残る空也念仏踊り

お堂に向かい礼拝する「空也光陵会」のメンバー。2013年の祭礼では職衆の人数が多かった。

八葉寺の空也念仏踊りは、8月5日の午前10時から空也堂の前で開催されます。空也役の導師1名、金瓢箪1名、銀瓢箪1名、金太鼓1名、銀太鼓1名、鉦4名が基本編成です。

導師につく8名は「職衆しきしゅう」と呼ばれます。この8名という編成にはきちんとした由来があります。空也が布教活動をすると、いつもお釈迦様とその前世6代の姿が現前したそうです。空也のそばにはお釈迦様7尊と弟子の平定盛の姿があったことから、後世の職衆も8名に規定されました。都合により増減がある場合は、鉦の人数で調整します。

空也念仏踊りの魅力は、改変されずに連綿と続いていることです。東京の空也光勝会から踊りを引き継いで以降、口伝によりそのままの形態で伝えられてきました。独特な節回しを音符に頼らず継承できるのは、努力の賜物だと言えます。冬木沢の踊りは県内外で高く評価され、昭和47年には福島県重要無形民俗文化財に指定されています。

祭礼はあくまでも祈りが目的。祖先を想う人々の想いを背負い念仏を唱える。

実際に見学すると、一般的な祭りとは異なる独特の雰囲気に引き込まれます。踊りと言っても目的は祈りです。仏教行事としての側面が強く、檀信徒が見守る中で厳かに進行します。鳴り物のリズムや節回しは耳に残り、張り詰めた雰囲気の中にも人の心を捉える魅力があることが感じられました。踊りが進むほどに場内が一体感を持ち、「なるほど、こういった雰囲気だからこそ、御霊を迎えるに相応しいのだ」と実感しました。

観光向けの行事ではないものの、仏徒・会津が持つ独特の雰囲気を深く味わえます。お盆本来の役割を再認識する意味でも、一見の価値があります。

2013年8月5日に撮影したデータを7分程度にまとめています。撮影は当日同行してくれたkuma氏です。

郡青ひなたとは

郡青ぐんじょうひなた」は風土や文化、文学といった、他誌面とは一味違った視点から町を紹介していく「観光文芸誌」です。観光地だけに留まらない「何気ない美しさ」、あまり知られていない地域芸能や文化などを広くピックアップし、文芸誌的要素と観光情報誌的要素の両面から、福島県の魅力を紹介しています。

誌名は、空や海が最も綺麗な時間に見せる「群青」色と、編集部が長年拠点を置いていた「郡山」をかけ、「郡青(ぐんじょう)」という造語を作りました。また作品を通して温かな「ひなた」をつくっていきたいという思いを込めています。

現在、筆者の木村が隣県に引っ越したことで、新たな取材は進めにくい状態です。これまでのストックを、少しずつ公開していけたらと思います。

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