古くから続く仏教文化に触れる 慧日寺跡 - 郡青ひなたweb
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古くから続く仏教文化に触れる 慧日寺跡

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参考文献
・慧日寺資料館常設展示解説シート/金堂内展示解説シート/史跡 現地解説シート
・磐梯町発行 複数の観光資料(パンフレット、リーフレット等)
・磐梯町歴史的風致維持向上計画 | 磐梯町

史跡 慧日寺跡および慧日寺資料館

福島県耶麻郡磐梯町大字磐梯字寺西38(資料館)
TEL:0242-73-3000
資料館、慧日寺跡(有料施設)とも12/1〜3/31までお休み

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仏道では師に頼らず自ら得た悟りを自然智じねんちと呼ぶ。自然智を得るため、僧達は山林修行に励んだ。
当地域では、600年代に行者が磐梯山を、700年代には行基が厩嶽山うまやさんを開いたと言われる。徳一とくいつが平安初期に慧日寺を開創したのも、修行に適した自然条件が確立されていたからだろう。

山岳信仰の素地があったことで、慧日寺は磐梯山を中心に繁栄した。平安中期には300の寺僧、数千の僧兵を誇った。徳一亡き後は今与こんよが後継となり、会津仏教の中心となる大伽藍であった。
広大な規模や往時の盛況ぶりは、県の重要文化財に指定されている「絹本著色けんぽんちゃくしょく恵日寺絵図」(会津若松市の県立博物館に保管)で窺い知れる。遺構の発掘調査で多くの建物礎石が露出したことで、堂々たる姿も浮かび上がった。

寺勢を保てなくなったのは、歴史の流れだ。源平の争いで平家方についたことで、衰退を余儀なくされた。戦国時代には伊達軍の侵攻により、わずかな建物を残し灰燼に帰す。それでも人々の篤い信仰心や会津藩の庇護により、法灯を保ち続けた。明治初年の廃仏毀釈で廃寺となるまで、実に1000年以上の歴史が刻まれた。

廃寺後は、塔頭たっちゅう(脇寺)の観音院が教えを引き継いだ。寺の復興は、この塔頭を利用しておこなわれた。明治37年に寺号を取り戻し、大正2年には堂塔が修復された。「磐梯山恵日寺」として新たなスタートを切り、現在に至る。

歴史ある慧日寺伽藍の存在は、地域の大きな誇りでもある。大寺院の姿を少しでも復興させようと、昭和26年(1951年)に慧日寺跡の学術調査が開始された。昭和45年(1970年)には国の史跡に指定され、同61年(1986年)に追加の指定もおこなわれた。
2度の史跡指定による後押しもあり、史跡整備事業は着々と進んでいる。とくに中心伽藍の南部分に当たる金堂、中門、石敷きの広場は、往時の慧日寺を象徴する存在である。整備が優先され、平成20年(2008年)に金堂が、翌年には中門が完成した。平成30年(2018年)には、苦労の末、金堂内部の周丈六薬師如来像も完成し、新たな見どころとなった。

訪問のさいは、復元された中門、金堂を中心に、恵日寺、薬師堂など周辺を丁寧に周ると良いだろう。伽藍が持つ独特の雰囲気や、歴史の推移を肌で感じられるはずだ。
また慧日寺資料館(12月〜3月は休館)は、磐梯町全体の歴史がわかる貴重な場所だ。あわせて見学すれば、より深く歴史散策を楽しめるだろう。

慧日寺と恵日寺について

福島大学の調査によれば、恵日寺は11世紀初頭まで「慧日寺」と表記されていた。
文化庁と磐梯町教育委員会が連名で設置している案内板を参照すると、現在は以下の区別をしている。

  • 明治期の廃仏毀釈後、旧塔頭をもとに復興した寺院は「恵日寺」(現在する寺院)
  • 国指定の史跡として指定された旧跡は、「慧日寺」

本稿でも、史跡は「慧日寺」、現在の寺院は「恵日寺」と表記する。

(参照:絹本著色恵日寺絵図の歴史地理的考察 | 安田初雄)

中門。観覧は有料で、事務棟でチケットを買う
朱色が美しい金堂。手前の石敷きの広場が独特の雰囲気を生み出す
2018年に完成した薬師如来坐像
金堂の奥には、講堂、食堂、仏堂跡が続く。立体ではなく、柱の位置や規模が平面で復元されている

金堂・中門ちゅうもん(伽藍の中心部)

絹本著色けんぽんちゃくしょく恵日寺絵図」や発掘調査から、慧日寺の伽藍は中門、金堂、講堂(経典や法の講義をおこなう場所)、食堂が南北に立ち並んでいたことが判明している。

伽藍の中心を担うのは金堂だ。金堂とは、御本尊が安置される場所(本堂)を指す。慧日寺が創建された平安時代初期には、本堂ではなく「金堂」と呼ばれることが多かった。

昭和に始まった整備事業でも、当地の歴史と文化の象徴として、金堂と中門の立体復元(※注)が手がけられた。金堂は平成20年(2008年)、金堂に通じる中門は翌年に完成している。

金堂は横19.5メートル、奥行き12.6メートルで、大規模ではないものの、横に5つ、奥行き4つの柱間を持つ五間四面ごけんしめん堂である。
歴史ある寺院らしく鮮やかな朱色で塗られ、高い格式が感じられる。朱色と金の組み合わせは厳かながらも美しく、雪の降りしきる冬にも似合う。

中門と金堂の間は石敷きになっている。これは平成9年に基礎地盤を調査したさい、自然石による石敷きの遺構が発見されたことによる。
調査を重ねるうち、金堂前には広場のように石敷きが広がっていたことがわかった。創始者である徳一が若年を過ごした南部の技法に類似すると言われ、全国的に見ても珍しい。

金堂に安置されていた御本尊は薬師如来像だ。脇侍として日光菩薩像、月光菩薩像が配された。
薬師三尊像は、慧日寺の長い歴史の中で幾度となく火災に遭う。そのたびに復興されてきたものの、明治5年(1872年)の火災で仏頭を残して消失、その仏頭も避難先の火災で完全に消失した。

現在は薬師如来坐像も復元され、新たな見どころに

慧日寺跡の整備事業では、薬師如来坐像の復元も手がけられた。平成27年(2015年)から3年をかけ、同30年7月に完成、現在一般公開されている。座高約2メートルほどの黄金に輝く坐像が、金堂中央に配されている。

復元作業の行程は、金堂内部で解説されている。

<薬師如来坐像復元行程>

①像の大きさの検討
②造形の検討
③台座の制作
④本体用の木取り(天然木曽ヒノキ)
⑤木彫作業
⑥光背(体から発する光)の制作
⑦各部材の漆工
⑧漆箔(漆を擦り込み金箔を押す)
⑨彩色
⑩古色付け(古色を帯びた姿の再現)
⑪制作趣意書の納入

行程からは、大変な手数をかけ丁寧に制作・安置されたことがわかる。脈々と受け継がれた人々の信仰心と、復元にかける情熱があったからこそ、再びこの場所で手を合わせることができるようになったのだ。

なお、金堂・中門の観覧は12月〜3月は休止される。(資料館と同様)来訪のさいは注意したい。
晩春には、敷地最奥の乗丹坊の木ざしザクラが見事な花を咲かせる。桜とあわせて見るのもよいだろう。

※注)講堂、食堂、仏堂は平面での復元が試みられている。発見された礎石や根石(礎石を支える石)を利用しながら、建物の規模や柱の位置を地面に平面的に示す手法だ。解説板と一緒に見るとわかりやすい。

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