安積疏水 その歴史と功績 - 郡青ひなたweb - Page 2
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昭和に入り新安積疏水を建設

新安積疏水、須賀川市梅田。ローレルバレイカントリークラブの敷地外南側で撮影。
新安積疏水、逢瀬町多田野大久保にある小規模水力発電所。御霊櫃峠へ向かう市道を進み、砂利道に入ってすぐ。
新安積疏水、須賀川市柱田。

 その後、昭和18年(1943年)には食糧増産対策として、新安積疏水開拓建設事業が始まった。主な地域として、郡山市の逢瀬(おうせ)町や安積町南部、旧岩瀬郡を含む須賀川(すかがわ)市などが該当する。
 こちらは戦中、戦後の混乱の時期とも重なった影響からか、建設に約25年の歳月を要し、昭和45年(1970年)に完了した。水路は約35キロ、拓かれた農地は1500ヘクタールである。これにより、当時の安積原野はほぼ全域が猪苗代湖の水の恩恵を受けられるようになった。

 その後も昭和45年(1970年)からは更新事業として老朽化への対応、深田調整池の建設などが行われた。平成に入ってからは新安積疏水の更新事業も行われ、頑丈なコンクリートで覆われたトンネルとなり、平成20年に改修を終えたばかりである。

新安積疏水 経路

 上戸頭首工から運んだ水は、猪苗代町内の田子沼分水工で安積疏水と分かれる。新安積疏水は南の方向へ向かい、トンネルで山々を縫っていく。御霊櫃(ごれいびつ)峠の東を通り、各支線に分岐しながら南端は江花(えばな)川流域まで流れる。途中、大久保には89.8メートルの高低差を利用した小水力発電所が設けられており、安積疏水土地改良区事務所の電力をまかなっている。この発電所だけで約2000世帯分の電力をまかなえる能力を持っており、安積疏水の維持管理費軽減に大きく寄与している。

疏水の維持管理

昭和57年(1982年)に建設された現事務所。コンピューターで疏水全体の配水管理を行なっている。
ファン・ドールンの銅像。オランダの測量技師。安積疏水を始め、多くの設計に携わる。十六橋の脇に銅像が建てられている。
安積疏水を作るにあたり、まず最初に工事が行われたのが猪苗代湖の会津若松市側にある十六橋だ。会津側へ流れる日橋川の水量が減ってしまわないよう、水門を作り調整を行った。

 現在、両幹線の維持管理は安積疏水土地改良区によって行なわれている。水力発電は東京電力、水道水は郡山市(一部本宮市)の管轄であるため、農業用水のみの管理となっている。4月26日から9月10日までの取水期間の間、必要な時期に必要な量を流せるよう、コンピューターで徹底管理されている。
 ただ、幹線の制御は可能だが、多数ある支線部分までは目が届かない。そこで、各支線に関しては地元の農家百人ほどに疏水の維持管理をする「施設看護人」となってもらい、配水の調整を委任している。受益者である農家の人達の声を地元内で掬い上げ、本部管理だけでは見えないニーズに対応している。
 多くの先人達の苦労、また疏水を支える人々の力により、現在までに開田できる部分はほぼし尽くしたということだ。これからは老朽化への対策などを恒常的に行っていく。
 また、郡山の持つこの宝物を、後世に伝えていくこともテーマの一つだろう。安積疏水土地改良区の伊東豊美(とよみ)さんによると、現在は地元の小学生が毎年2000人強社会科見学に訪れる他、見学を希望する団体への説明や案内を積極的に行っているとのことだ。毎年県外からもたくさんの訪問者があるそうだ。
「補修等をしながら現状を維持し、先人達の作ったこの疏水を末永く伝えていきたい」と伊東さん。
 現在の郡山に住んでいると、水に苦労していた頃の姿は想像し難い。農業に従事していない限りは、水の恩恵を感じることもないだろう。しかし、郡山の都市としての基盤には、この安積疏水の存在がある。開成山公園に建てられた開拓者の群像や、猪苗代湖十六橋水門(会津若松市)のファン・ドールンの銅像などは、この長い歴史に触れる良いきっかけとなるだろう。詳しく学ぶには、安積開拓資料館として公開されている開成館や、県立安積高校内にある安積歴史博物館などを訪れるとよい。

 現在、安積疏水第二期国営事業が始まっており、上戸頭首工の改修から工事が始まっている。先人達が作った文化財は、多くの人々に守られながら、郡山市民の生活に欠かせない存在となっている。

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