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安積疏水(あさかそすい) その歴史と功績

猪苗代(いなわしろ)湖の水を安積原野へ 郡山市近代化の源

当写真:耶麻(やま)郡猪苗代町にある上戸(じょうこ)頭首工。猪苗代湖の水はここから取水され、郡山市へ流下する。昭和37年(1962年)の建設。それ以前の取水口は上戸浜にあった。
撮影協力:安積疏水土地改良区

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取材ご協力:安積疏水土地改良区 副理事長 渡邉武夫さん、総務課 伊東豊美さん
文章ご協力:安積疏水土地改良区 伊東豊美さん
写真:木村裕輔、熊川紘一

安積疏水土地改良区
〒963-8851
郡山市開成2-22-2
TEL 024-922-4595 FAX 024-922-9949

※見学のご相談などは、安積疏水土地改良区へお問い合わせください。
なお、本誌掲載の写真箇所は、上戸頭首工以外は一般の道路に面しており、見ることができますが、その際は流れの速い水に十分な注意を払うようお願いいたします。

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 郡山市が現在のような中核市へ発展を遂げた礎として、この街の農業・工業を支え続けた安積疏水の存在がある。雨が少なく、かつては荒涼とした原野であった安積地方(※注)は、疏水の開通によって肥沃な大地へと変貌を遂げた。今では日本を代表する米の産地となった郡山市。明治から続く安積疏水の歴史を振り返り、その功績を辿っていく。

(注)安積地方とは、主に現在の郡山市を中心とした「郡山盆地」の一帯を指す。阿武隈川に向かって傾斜している地形や、雨の少ない天候などから、安積疏水開通まで水に恵まれず、「安積原野」と言われていた。

荒涼とした原野へ水を

熱海頭首工。中山峠を下り一旦五百川と交わった疏水は、ここで再び分かれる。国道49号旧道(温泉街通り)から見ることができる。
疏水神社。熱海頭首工の敷地内。
昔のめがね橋。五百川をまたいで安積原野へ。
撮影協力・許可:安積疏水土地改良区
現在のめがね橋こと、熱海疏水橋。こちらも国道49号旧道から見える。

 福島県は「コシヒカリ」「ひとめぼれ」を中心とした良質な米の産地として知られている。中でも郡山市は県内一の収穫量(※平成24年農林水産統計)を誇り、郡山産ブランド米の「あさか舞」は多くの人に愛されている。初夏には市内随所で緑美しい田園風景が見られ、自然と調和したこの街の魅力に気付かされる。

 現在の安積地方を見ていると、この地がかつて荒涼とした大地であったとは信じ難い。だが、現在の姿はあくまでも明治以降のものなのだ。それまでは農業には不適切な場所であった。

 市内には阿武隈川が南北に流れてはいるものの、平野部よりも標高が低いため、水を引いてくることは不可能だ。降水量も年間を通して少なく、会津地方のように冬場の降雪も期待できない。現在の郡山駅周辺こそ宿場町として賑わっていたが、少し離れればたくさんの荒れ地を抱え、一面の原野が広がっていた。米作りは古くから行われてはいたが、水の確保には苦労を強いられ続けた。安定した水の供給は地域の悲願であったのだ。

 明治6年(1873年)、福島県典侍事・中條政恒(なかじょうまさつね)は桑野開墾所在勤を命じられ、郡山の富商・阿部茂兵衛(もへい)らに大槻(おおつき)原の開墾を要請した。これを請け、阿部は開成社を結成し、100町歩(ちょうぶ)(100ヘクタール)を拓き桑野村を建設した。
 明治9年(1876年)、二本松士族28戸が開成社開墾の南側(現在の開成地区)に入植し開拓を始めた。さらに、明治政府は維新による武家制度崩壊により困窮する士族を救済するため、入植先として安積原野、青森県三本木(さんぼんぎ)原、栃木県那須ノ原等を調査した。その結果、安積原野が最適であると判断し、全国から2000戸を入植させる計画を立てた。これにより、九州久留米、四国松山・高地、岡山、鳥取藩など9藩2000人が、明治11年(1878年)から16年(1883年)にかけて入植した。
 だが、水利が悪く開拓は思うように進まなかった。そのため、中條政恒は明治政府に猪苗代湖疏水案を申し述べる。日本人技術者・南一郎平(いちろうべい)が調査・設計した、上戸(じょうこ)から田子沼(たごぬま)を経由させる案を、オランダ人技師のファン・ドールンが可として政府に報告、政府からの建設認可が降りた。
 明治12年(1879年)、戸ノ口(とのくち)十六橋水門から工事が始まった。明治15年(1882年)までに延べ85万人の従業者によって水路127キロが完成し、猪苗代湖の水が安積原野に流下した。工事には蒸気機関による掘削機やダイナマイト、セメント等、当時の近代技術が駆使された。また、近隣の村々から農民が寸志夫として工事に協力したこともあり、わずか3年という短期間での完成となった。

郡山市の近代化に貢献

安積疏水、熱海町安子島大沢。
前の写真の先、細い道を進むと第一分水工に辿り着く。このように何回も分水を繰り返しながら、各地へ繋がっていく。
安積疏水、逢瀬町夏出。福島交通夏出バス停跡地(現在は廃止)付近で撮影。

 こうして明治15年(1882年)に安積疏水が開通すると、安積原野には多大な水の恩恵がもたらされた。農地面積は大幅に拡大し、農家の数も年々増えていった。

工業への貢献も大きい。明治31年(1898年)、郡山絹糸(けんし)紡績株式会社が製糸の動力源として安積疏水の用水を利用する水力発電所を、沼上(ぬまがみ)隧道出口に建設した。東北では最初、全国でも2番目の水力発電所である。郡山市街地まで24キロの長距離高圧送電は画期的である。
 その後、大正8年(1919年)に竹ノ内(たけのうち)、同10年(1921年)には丸守(まるもり)発電所が建設された。電気がある上、開拓された畑には桑の木があり、蚕が飼われていた。その条件の良さから、長野県の紡績会社が郡山へ進出してきた。最盛期には7つの工場、5000人の従業員が働き、製品はアメリカ等へ輸出されていた。その繁栄から、当時郡山は「製糸の町」と呼ばれるほどであった。現在、これら3つの発電所は東京電力の所有であり、安積疏水の灌漑用水に合わせて発電を行い、その電気は東北電力へ売られている。

 また、郡山市の水道水も安積疏水の恩恵を受けている。もともと郡山は水道にも不便な場所であった。江戸時代から明治の初め、人々は皿沼より生活用水を取水していた。渇水に苦しみ、降雨時には汚濁に悩まされていた。
 安積疏水が通水した後は、疏水の水が分水の流末に位置する皿沼へ流れ込むようになった。明治25年(1892年)には町営水道として豊田(とよだ)池への注水が開始された。以降100年以上にわたり、郡山市民は猪苗代湖の水を生活用水として利用している。なお、豊田浄水場は平成25年(2013年)4月に堀口浄水場に統合され廃止となったが、後述の新安積疏水により、疏水の水は引き続き浄水場へ供給されている。

 このように安積疏水は郡山の近代化に大きく貢献した。現在の郡山市の姿は、安積疏水の存在なくして語ることはできない。

東京電力沼上発電所。長距離送電の先駆け的存在だ。全国で2番目に建設された水力発電所。
竹ノ内発電所。大正8年(1919年)建設。中山宿のそば。
丸守発電所。大正10年(1921年)建設。熱海頭首工のすぐそば。

安積疏水 経路

 取水口は耶麻(やま)郡猪苗代町の上戸(じょうこ)浜付近。トンネルで中山峠を下り五百川へ注ぐ。磐梯熱海温泉街まで流れ、熱海頭首工から水路に取水し、熱海疏水橋(当時のめがね橋)で五百川を横断。その後幹線からいくつもの分水路が分岐し、さらに支線へと分かれていく。

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