雪景色の冬から桜芽吹く春へ・・・会津若松・鶴ヶ城の美しい風景
鶴ヶ城は会津を代表する観光スポットです。「会津観光では、どこよりも先に鶴ヶ城を訪れたい」と考える人も多いのではないでしょうか。鶴ヶ城はどの季節も美しく、歴史ある名城の風格を楽しめます。中でもおすすめしたいのが、雪の降る冬から桜が咲き乱れる春にかけてです。
冬の会津は来訪のハードルが高く、観光向きの季節とは言えません。しかし雪があるからこそ感じられる情緒は、旅行者を強く惹きつけるでしょう。冬ならではのイベントも開かれ、訪れる者を楽しませてくれます。
彼岸獅子が開催される頃になると、風景が徐々に春めいてきます。厳しい冬があるからこそ、春の訪れは格別です。4月半ばを過ぎると街は一気に華やぎ、桜の季節がやってきます。鶴ヶ城は桜の名所としても知られ、毎年多くの人が訪れます。お城を背景に見る桜は、春の会津を代表する美しさです。
この記事では、冬から春に移り変わる鶴ヶ城の魅力を、写真を交えて紹介します。筆者は旅好きが高じて、2012年〜13年に会津若松に居住しました。心を捉えて離さない鶴ヶ城の風景を、皆様もお楽しみください。
当記事執筆・研究の参考文献
『鶴ヶ城』.歴史春秋社,1984.
『新版 福島県の歴史散歩』.山川出版社,2000.
稲村行真.『ニッポン獅子舞紀行』.青弓社,2024.
Contents
鶴ヶ城の歴史を簡単に解説
蘆名氏が館を築いたのがお城の前身
鶴ヶ城といえば蒲生氏や松平氏を思い浮かべる人が多いかもしれません。しかし歴史を辿ると室町時代まで遡ることができます。この時代のお城は石造りの本格的なものではなく、本丸中心の小規模なものだったようです。お城を創建したのは当時の会津を支配していた蘆名氏です。
実は鶴ヶ城の始まりはあまり断定的に紹介できるものではありません。天文7年(1538年)の大火で、創建当時を伝える資料が消失したためです。そのため研究者や文献ごとに主張が異なるのが実情です。
今回の執筆で参照した資料(※注)では、至徳元年(1384年)、蘆名氏第7代当主・直盛による創建と紹介されています。直盛は湯川がつくる扇状地の上に館を建て、そこを生活の場としました。館は「東黒川館」と呼ばれ、城下は「黒川」と呼ばれたようです。「黒川」という名は、蘆名氏自身が名乗った名前に由来するとも、湯川の旧称だとも言われています。
※注:本記事の歴史紹介は、以下の書籍を参考にしています。当該書籍の記述を優先するものとし、史実に関する論争は望みません。
(参照:『鶴ヶ城』.歴史春秋社,1984.
『新版 福島県の歴史散歩』.山川出版社,2000.)
蒲生氏郷により本格的な城郭へ
蘆名氏は天正17年(1589年)に摺上原の戦いに敗れ、一族400年の歴史に幕を閉じました。会津は全国征服を狙う伊達政宗の支配下に入るものの、これも長くは続きません。会津攻めが豊臣秀吉の不信を買ったことや、命に背き小田原攻めに遅参したことで、領土を取り上げられたのです。没収された会津の領土は蒲生氏郷にわたります。
氏郷は文禄元年(1592年)からお城の大改修に着手し、石垣を用いて本丸、二の丸、三の丸を建造、天守閣は七層の本格的な姿になりました。改修に要した期間はわずか一年で、驚異的なスピードでの竣工です。
同時期には城下町の整備も行っています。暗いイメージがあった町名(黒川)を、「若松」に改め、改修したお城も「若松城」を名乗るようになりました。氏郷の本領である近江国蒲生郡に「若松の森」と呼ばれる場所があり、それにちなんだ名前だと言われています。
城下は町割(今で言う区画整備)により、立派な「城下町」に変貌を遂げました。近江からたくさんの商工業者が移り住み、商工業の礎も形成されます。商店街では毎日市が開かれ、大変賑わっていたようです。
お城に「鶴ヶ城」の愛称がついたのも、この頃だと言われています。
慶長の大地震で城郭が崩れる
蒲生氏郷が亡くなった後は息子の秀行が入ります。秀行は豊臣秀吉の判断で一時宇都宮の大名に転封するものの、新たに会津を支配した上杉景勝が関ヶ原の合戦に敗れたため、再び会津を治めるようになりました。秀行は徳川方につき、戦で成果をあげていたのです。その後30歳で死去するまで会津支配に心血を注ぎ、交易や交通路の整備に大きな功績を残しました。
転換点となったのは慶長16年(1611年)に起きた大地震です。会津の被害は甚大で、石垣は大半が崩れ落ち、天守閣も傾いてしまいました。蒲生家は災害復旧に莫大な資金を投じざるを得なくなり、財政建て直しをめぐって家内部で対立が起こります。加えて秀行の跡を継いだ忠郷が、跡取りがない状態で夭折したことで、家系が完全に途絶えてしまいました。お城の修繕は、後の世に持ち越されます。
加藤氏の時代に西出丸・北出丸がつくられた
蒲生忠郷の死後、寛永4年(1627年)に伊予・松山藩から加藤氏が登用されます。地震で傾いたお城の修繕に着手したのは、二代目の加藤明成です。寛永16年(1639年)から改修を始め、天守閣を五層に改めます。これにより居住に重点を置いたつくりから、城としての防御機能が強化されたつくりへと生まれ変わりました。新たにつくられた北出丸・西出丸や、土塁、枡形などは、後の戦争で大きな役割を果たします。
明成はお城の改修で大きな功績を残した反面、家臣や農民との関係構築に問題を抱えていました。先代の家老を務めた堀主水に謀反を起こされた事件は、大規模なお家騒動に発展し、会津の荒廃を招いてしまいます。幕府は加藤氏から会津40万石を没収し、後任として最上から保科正之を登用しました。
松平氏の入城から激動の幕末へ
保科正之は名君として知られ、領民の救済策として米やお金を貸し出すなど、荒廃した農村の立て直しに尽力しました。城下の各所に常設店舗が出店し、商業活動が急速な発展を遂げたのもこの頃です。
三代目藩主の正容の時代からは幕府に松平姓を与えられます。お城は明治に入る1868年まで松平氏の居城となりました。平穏に藩政が続いたかのように思われる時期ですが、実際は幕府の支配下に置かれたことで、多額の出費を強いられることも多かったようです。財政の危機的状況を年貢の強化で解決しようとしたことで、四代目・容貞の時代には各所で農民一揆が起こりました。その後、容保の代で激動の幕末を迎え、戊辰戦争に巻き込まれていきます。
戊辰戦争での落城と城の解体
戊辰戦争では旧幕兵や脱走兵とともに、政府軍を相手に戦います。苦しい戦況が続き、母成峠での敗戦後には政府軍が城下になだれ込みました。会津軍は兵力の不足から、鶴ヶ城への籠城を余儀なくされます。籠城者数は5,000人を数え、全国の兵を相手に1ヶ月間持ちこたえました。最終的に東の小田山からの砲撃に耐えられず、明治元年(1868年)9月にお城を明け渡すことになるのです。
戦火で市街地の殆どが焼かれたものの、翌年には若松県が設置され、県庁所在地として復興が行われました。(その後1876年に福島県に合併)1874年には天守閣が解体され、鶴ヶ城は塀と石垣だけの姿になります。
お城の復元は昭和の戦後
その後も天守閣は再建されず、時代は昭和に至ります。第二次世界大戦後の混乱の中では、一時本丸跡を競輪場として使用したこともあったようです。
ようやく再建に至ったのは、1965年のこと。混乱も落ち着き、人々の中で天守閣再建への機運が高まったのです。明治初期の古写真をもとに忠実に復元されたことで、五層の美しい姿が現代に蘇りました。内部には郷土資料館が設けられ、五層それぞれが異なるテーマを持ち展示されています。
1層:お城の歴史
2層:領主の変遷
3層:幕末の動乱
4層:会津ゆかりの先人
5層:展望
復元への努力は現在も続けられています。2011年には屋根瓦が幕末の頃と同じ赤瓦に置き換えられました。赤瓦を用いた天守閣は、鶴ヶ城だけなのだそうです。
(参照:会津鶴ヶ城 | 会津若松観光ビューロー)
鶴ヶ城の美しさが際立つ雪景色の冬
紅葉が終わる11月、会津若松ではどんよりとした天気が多くなります。例年11月中に一度雪が降るものの、積もるほどのことは稀です。お城では来たるべき冬に向け、松の木に「枝つり」が施されます。
12月に入ると徐々に雪が積もり始め、クリスマスからお正月頃には街全体が白く彩られます。雪の天守閣は凛とした佇まいで、格別美しく感じられるでしょう。周りの景色が一面白に染まることで、天守閣の威容が際立つのかもしれません。例年、2月まで雪のある美しい姿を楽しめます。(近年は温暖化の影響で、真冬でも積雪がない時期もあります)
冬の会津観光はハードルが高い
冬の会津若松は訪れやすい場所ではありません。自家用車で観光する場合、スタッドレスタイヤと、雪道への慣れが必要です。路面がでこぼこになるケースも多く、運転には苦労させられるでしょう。特に交差点にはミラーバーンが現れ、細心の注意を強いられます。
公共交通で来訪する場合も、訪れにくさは変わりません。水分の多い雪は歩きにくく、防滑性・防水性の高い靴でも苦労させられます。高速バス・磐越西線とも悪天候でストップすることがあり、運が悪いと目的地まで辿り着けません。
しかしネガティブな要素が多くても、冬の会津には訪れるべき価値があります。冬だけの情緒は、何にも代えがたい魅力です。来訪時には天気予報をよく確認し、「雪がおさまった後」で「晴れが続きそうな日」を選ぶのがおすすめです。
冬の行事 絵ろうそく祭り
会津を代表する民芸品の一つが、優しいあかりを灯す「絵蝋燭」です。菊や藤、牡丹など鮮やかな花が描かれ、花の咲かない時期のお供えとして重宝されてきました。
絵蝋燭の歴史は古く、始まりは室町時代の宝徳年間まで遡ると言われます。当時の領主・蘆名盛信は、漆樹の栽培を奨励し、産業を育てようとしました。漆は後の会津塗の原料になっただけでなく、実から採取した木蝋は蝋燭に加工できます。絵蝋燭は会津の特産品として大切に継承され、江戸時代には参勤交代の献上品にも選ばれたようです。時の将軍・徳川綱吉がこれを気に入ったことで、一躍全国区になりました。
この美しい伝統工芸品を使い、鶴ヶ城と御薬園で「絵ろうそく祭り」が開催されます。2000年(平成12年)に第一回行事が開催され、会津が誇る伝統芸能が広く認知されました。積雪量が多い2月10日前の金曜土曜(※公式サイトを要確認)に開催され、雪の中で淡く美しい光を楽しめます。
鶴ヶ城では本郷焼の瓦燈や会津塗りの燭台を使用し、お城の美しさと共に会津の伝統を楽しめる一方で、御薬園では竹筒で蝋燭を包んだ幻想的な世界を味わえます。2km程度の距離が離れているものの、両方見られると行事を深く楽しめるでしょう。
開催時期は気候が厳しくなりがちで、写真を撮影した2013年も郡山からの磐越西線が途中で運転を取りやめました。来訪の際には天候を確認し、余裕を持って行動してください。
<公式サイト掲載情報>
2025年2月7日(金)8日(土)開催
17:30頃〜20:30
鶴ヶ城、御薬園、市内各所
長い冬があるからこそ美しい鶴ヶ城の春
春の訪れを告げる彼岸獅子
3月は暖かい日もあるものの、春には遠い陽気が続きます。寒波が来れば雪が降り、冬の景色に一変することも珍しくはありません。それでも少しずつ変わりゆく景色に心を踊らせ、暖かな春に思いを馳せるようになります。そんな「春待ち」の時期に開催されるのが彼岸獅子です。会津に春を告げる行事として、古くから人々に愛されてきました。
獅子舞には正月のイメージがあるものの、福島県では四季折々、さまざまな時期に行われます。彼岸獅子はその名のとおり、春彼岸の中日である春分の日を中心に開催される行事です。
この獅子の始まりは江戸時代の寛永年間(1624〜1644年)だと言われています。古くから先祖供養だけでなく、争いの平和的解決の役割も担ってきました。稲村行真氏の『ニッポン獅子紀行』には、戊辰戦争時に松平容保の家老・山川大蔵が「通り獅子」を演じながら行進し、敵兵の攻撃を避けたエピソードが紹介されています。
現在の彼岸獅子は鶴ヶ城本丸前広場での演舞の後、七日町駅近くの阿弥陀寺に移動、さらに本町通りや市役所通りなどでも演じられます。市民はもちろん、できるだけ多くの観光客にもアピールできるよう工夫されているのです。演目は30分程度の見やすいサイズにまとめられ、「庭入」「幣舞」「弓舞」「袖舞」などが披露されます。七日町通りでは一軒一軒の商店をまわる「問付け(門打ち)」も行われており、古くから脈々と続く「地域芸能」としての一面も色濃く感じられるでしょう。
筆者が訪れた2018年は、時折雪が舞う中での演舞となりました。鶴ヶ城を背景にした勇壮な舞は、冬を切り裂く迫力が感じられます。観客は獅子の一挙一動に魅了され、見せ場では大きな拍手が沸き起こりました。迫力ある獅子舞に足を止める観光客も多く、時間が経つごとに観衆が増えていったのを記憶しています。
場所を変えて長時間行われるため、日程さえ合えば訪れづらい行事ではありません。公式サイトによれば、休日にも演舞が見られるよう工夫されているようです。年度ごとの詳しい開催時間など、詳しくは以下サイトをご確認ください。
手ブレがある動画で申し訳ないですが、来訪時に撮影した動画を掲載します。演舞の締めとなる「弓くぐり」の場面です。
お花見は4月下旬
4月に入り入学式を迎える頃、町には最後の雪が舞います。冬と春のせめぎあいは終りを迎え、ようやく暖かな季節の到来です。福島県の桜前線は、「浜通りを北上し、中通りを南下した後に会津に達する」と言われます。温暖化の影響で開花が早まる年もあるものの、例年会津若松の桜は4月の下旬が見頃です。鶴ヶ城の桜は東日本最大級とも言われ、約1,000本が見事な花を咲かせます。
桜の開花に合わせ、お城では「鶴ヶ城さくらまつり」が開催されます。夜間はライトアップされ、昼間とは違った雰囲気で景色を楽しめます。桜越しにお城を見上げるのはもちろん、東側・二ノ丸方面の桜も見事です。廊下橋からお堀の外周を回るように、ゆっくりと散策してみるのも良いでしょう。華やぐ春の情緒を楽しめます。
郡青ひなたとは
「郡青ひなた」は風土や文化、文学といった、他誌面とは一味違った視点から福島県の魅力を取り上げる「観光文芸誌」です。観光地だけに留まらない「何気ない美しさ」、あまり知られていない地域芸能や文化などを広くピックアップし、文芸誌的要素と観光情報誌的要素の両面から魅力を紹介します。
誌名は、空や海が最も綺麗な時間に見せる「群青」色と、編集部が長年拠点を置いていた「郡山」をかけ、「郡青(ぐんじょう)」という造語を作りました。また作品を通して温かな「ひなた」をつくっていきたいという思いが込められています。
現在、筆者の木村が隣県に引っ越したことで、新たな取材が進めにくい状態です。これまでのストックを、少しずつ公開していけたらと思います。
ライティングを承ります
現在、筆者の木村はWebライターとして働いています。SEO記事だけでなく、企業のブランディング記事、インタビュー記事、LPのライティングなど幅広く行います。得意ジャンルは教育、児童福祉、起業、転職、就活などです。ブログ記事を通してアクセス数を増やしたい事業者様、個人様からのご依頼を承っております。「AIに負けない熱量」「小説や詩も書く表現力」が魅力です。ご興味がある方は、以下サイトからお問い合わせください。
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