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天栄村 歴史・民俗の旅

山に抱かれた豊かな自然と、そこに根付き営まれてきた人々の生活。中通りと会津を結ぶ交通の要衝である地理的側面。そういった様々な影響により、村にはたくさんの歴史や民話が残っている。
村が歩んできた軌跡に触れることで、現在の景色が少し違って見えてくる。

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取材ご協力:天栄村教育委員会生涯学習課 根本容作さん
資料ご提供:天栄村産業振興課商工観光グループ

さらに詳しい村の歴史については、、天栄村ふるさと文化伝承館へ。
天栄村ふるさと文化伝承館:TEL 0248-81-1030

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民話が残る釈迦堂(しゃかどう)

 天栄村の風土や文化は、平野部に属する東部と、山間部に属する西部とで大きく異なる。今回の散策では東部から山を越え西部へと辿ることで、村全体を大きく見渡してみたいと思う。

 まず鏡石町、矢吹町、天栄村の三自治体が入り組む最東部、沖内(おきうち)地区に伝わる、河童伝説である。これは天正期(1500年代後半)の出来事であるとされ、釈迦堂川に住んでいた暴れ河童を、領主・馬場八郎左エ門(はちろうざえもん)が鎮める話。
 今では河川改修が行われ、おどろおどろしい雰囲気は全くないが、沖内橋のたもとに五体の河童と八郎左エ門の像が立てられており、往時の様子をユーモラスに表現している。
 付近には田園風景が広がり、空が広く感じられる。県道55号郡山矢吹線から河原を東へゆっくり歩き、沖内橋まで向かうとよいだろう。

河童の詫び証文(じょうもん)

 天正期のこと、剛勇として知られる領主・馬場八郎左エ門が、釈迦堂川の濁流を馬に乗って通り過ぎようとした。辺りはすっかり夕闇で、おどろおどろしい雰囲気。
 そんな中、川の途中で馬が歩みを止めてしまう。不審に思い馬の後部を見れば、怪しげな動物が尻尾につかまっていた。
 それが河童だと分かった八郎左エ門は、太刀を抜いて手討ちにしようとしたが、河童は「妻子や子分がいるから」などと詫びを入れた。
 八郎左エ門は、今後は悪さをせず、水難から守るよう河童に誓わせ、偏平石にその旨を書かせて詫び証文とした。
 最初は丘に埋められたが、河童達が取り返そうと荒らしたため、後に石棺に納め地中深く埋められ、その上には祠が建てられた。近くの赤津神社=不開(あかず)神社がその場所だとされている。

助さん格さん?

 続いて県道289号下松本鏡石停車場線に入り、すぐに辿り着くのが、飯豊(いいとよ)という地区である。ここは意外な人物と縁がある場所なのだ。
 その人物とは時代劇「水戸黄門」の助さん格さんの、格さんのモデルとなった安積(あさか)覚兵衛(かくべえ)。「大日本史」の編纂を行う彰考館(しょうこうかん)の総裁となった人物だ。この曽祖父に当たる飯土用(いいどよう)藤内(とうない)が、戦国時代に現在の飯豊の城主だったとのこと。
 人の縁とはどこでどう繋がっているか分からないものである。

畑の中の前方後円墳

 そのまま村役場の方へ向かって西進していき、役場に至る手前で一本南の農道へ入る。すると畑の中に何やらこんもりとした一帯があることに気づく。龍ヶ塚(りゅうがづか)古墳である。
 今からおよそ1400年前につくられた前方後円墳で、石背国造(いわせのくにのみやつこ)第五世・建磐主命(たていわぬしのみこと)の墓と言われている。岩瀬郡内では最大の古墳だ。

龍ヶ塚古墳

 石背国造第五世、建磐主命の墓と言われる前方後円墳。石背国造は、現在の須賀川市と岩瀬郡を合わせた面積の約2倍半の領域を支配していた。大きさは、全長48.5メートル。昭和55年に県の重要文化財に指定されている。

激戦の山 大里(おおさと)城跡

 また、歴史スポットとして欠かせないのが、古墳から国道294号を少々南下したところにある大里城(通称・牛ヶ城)だ。
 天正18年、二階堂氏一門の箭田野義正(やたのよしまさ)率いる、わずか約400人程の軍が、伊達氏約一万人程の軍と戦い、戦国時代最後の籠城戦となった場所だ。戦いについては下記参照。
 当時は平地に舘を、山上に戦に備えた城を設けた。そのため、城といっても仰々しいものではなく、今現在は村が建てた説明板でその跡を知るばかりである。
 ただ、堀らしき跡は比較的くっきりと残されているので、西側のふるさと文化伝承館から続く遊歩道を歩き、往時に想いを馳せてみるのもいいだろう。

大里城跡

 今からおよそ500年前、室町時代に築かれた山城。二階堂氏の一門、箭田野義正が城を守っていたと言われている。天正18年、伊達氏約一万程の軍と戦になり、わずか400人程の軍で約2ヶ月間持ちこたえ、伊達軍は兵を引くこととなった。
 山上から石を落としたり、近くの竜田川をせき止めたりと、地形をうまく利用した他、多くの頭脳的戦術を仕掛けたため、これほどの期間を耐え抜いたと言われている。ちょうどこの戦の頃、豊臣秀吉は小田原の後北条氏との戦を繰り広げ、伊達氏にも援軍を要求していた。

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