木幡の幡祭り - 郡青ひなたweb
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国指定 重要無形民俗文化財

隠津島(おきつしま)神社例大祭
木幡(こはた)(はた)祭り

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取材ご協力:第62代宮司 安部匡俊(まさとし)さん

隠津島神社
住所:二本松市木幡字治家49
電話:0243-46-2869
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木幡の幡祭り
毎年12月第1日曜日に開催
午前9時頃から出立式、午後3時30分頃本殿前到着

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写真は全て2012年幡祭りの様子。冷涼な阿武隈高地ではあるが、この時期に積雪しているのは大変珍しい。
神社周辺は山間の高低差が大きい地形。
近くで見るとこの大きさ。
林道の途中から。この先で羽山神社の方へ道を折れ、山道へと入っていく。

 東和地区木幡にある隠津島神社は、日本三大旗祭りの一つと言われる「木幡の幡祭り」で知られている。これは12月初頭という珍しい時期に行われる祭礼で、美しく勇壮な姿を見ようと県内外から多くの人が訪れる。

1200年以上の歴史を持つ社

 隠津島神社は神護景雲(じんごけいうん)3年(769年)に勧請(かんじょう)された。大同年間の806年には平城天皇の勅願によって弁天堂が立てられ、神仏混合の社となる。その後天正(てんしょう)13年(1585年)、伊達政宗軍の兵火によって全山炎上したが、藩主や人民からの信仰が厚く再建された。明治期には政府の神仏分離の方針に従い、別当であった治陸(じろく)寺を廃して神社を残し、厳島(いつくしま)神社と称する。その後明治35年に「隠津島神社」の社名を復旧し、現在に至る。1200年以上にわたる長い歴史の中、平和や招福、縁結びの神として人々に広く信仰されてきた。
 現在の本殿は二本松藩第7代藩主の丹羽長貴(にわながよし)の命によって建造が始められ、8代長祥(ながあきら)が竣工、その間12年を要した。流れ造りの流麗な姿で参拝者を迎えてくれる。
 また、県指定重要文化財である三重塔は、室町時代に建立され、先述の伊達政宗軍の兵火の際にも耐え残った貴重なものである。延宝(えんぽう)2年(1674年)に二本松藩主の丹羽光重(みつしげ)によって修復され、その後も明治の大暴風の際に大幅な修理修復がなされている。近年では平成19年から21年の3ヶ年にわたり、平成の大改修が施された。県内でこのような歴史ある塔を残す箇所は少なく、価値の高いシンボルとして認知されている。

前九年(ぜんくねん)(えき)でのエピソードから生まれた祭礼

 木幡の幡祭りはこの隠津島神社で毎年12月の第1日曜日に行われている。白幡を先頭に色とりどりの幡が木幡山を練り歩く。950年という長い歴史を誇り、その由緒は前九年の役があった天喜(てんぎ)3年(1055年)にまで遡る。
 奥州征伐に出向いた源頼義(よりよし)頼家(よりいえ)親子ら官軍は、戦いに敗れてわずか数騎で木幡山に逃れ、神社に戦勝を祈願し立てこもった。その夜、木幡山には雪が降り、折からの積雪で山の木々はまるで白幡のように見えた。敵陣である安倍頼時(よりとき)は、安倍貞任(さだとう)宗任(むねとう)を従えて陣を構えていたが、木幡山を見て官軍が多数いると錯覚し、引き返していった。彼らには雪が多数の白幡に見えたのだ。これが後の陸奥鎮定を導くこととなった。
 信仰深い郷土民達により、この縁起が「幡祭り」とされ、以降今日まで続いてきた。冬の季節に行われるのはこの歴史がある所以である。長年、義家が神社に祈願した旧暦の11月18日を守って行われていたが、日曜日でないと幡の持ち手が集まらないという理由から、時代の流れの中で現在の12月第1日曜日に変更された。

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