祇園祭の裃や、昭和村からの需要で栄え、一世を風靡した田島の産業
田島の伝統産業 藍染め
写真:奥会津博物館の染屋(旧杉原家住宅)にて。生徒さんの作品。着物の帯など。
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田島は古くから伝統産業として藍染めが根付いてきた町だ。これは祇園祭や
全盛を極めたのは昭和初期の頃だ。当時は昭和村に限らず、冬場に麻を織って持ってくる人が多かった。建設業でも
しかし、昭和30年代頃から、徐々に麻よりも葉煙草が栽培されるように変化していき、麻を染める需要が減ってくる。加えて、戦後には大量生産の波も押し寄せ、染めるよりも買う方が安くなってしまった。人々の服装も変わっていき、町内に5件程あった染物屋は、芳賀文助さん宅1軒を残すのみとなった。その芳賀さんも、現役の染物屋としては既に引退され、奥会津博物館の「染屋(旧杉原家住宅)」で、藍染め講座学習会の講師を行なっている。
芳賀文助さんについて
芳賀さんは昭和5年、江戸時代の
父親の代までは職人を雇っていたこともあったそうだが、芳賀さんの代では一人だ。藍染めはもちろん、紋付など様々な染物をこなす。奥さんが染めた後の仕立てを行っており、夫婦二人三脚で歩んできた。時代の変化も大きかったが、農業も兼業しながら伝統を守ってきた。
忙しくなるのは4月からである。農業が始まる5月前と、祇園祭前の6月は特に忙しい。冬の間は気候の問題で作業できないので、仕事を取って回り、春のスタートに備える。
藍染めの工程は多岐に及ぶので、ここではごく簡単に触れたい。まず最初は藍を建てることから始める。「建てる」という行為は、通常水に溶けにくい藍を、
決して短時間で出来る作業ではないが、農作業用の作業着は田植え前までに納品するため、遅くとも1ヶ月以内に仕上げなければならない。藍は温度や湿度を同じ状態に保たなければならない繊細なもの。そのため、うまく建たない日もあったり、思ったような色に染まらない日もある。苦労は絶えなかったと言うが、それでも田島に唯一残った藍染めの職人として、衣類だけでなく布団カバーや
教室を通し、後世に伝承していく
この貴重な技術を後世に残し、田島の誇る伝統を伝えていこうと、芳賀さんは先述のように講師を引き受けている。平成6年の奥会津博物館オープン当初から携わり、これまでに多数の教え子を輩出してきた。近年は現役を引退されたこともあり、後進の育成に力を入れている。
染屋は、芳賀さんと共に田島に残る藍染め職人であった、杉原さん宅を移築したもの。12〜13程の藍甕があり、昔ながらの茅葺きの家の中で指導に当たる。以前は染めと糊付けだけを教えていたが、現在は「技術を伝えていく」という観点から、藍を建てるところから順序立てて教えていく。
教室は4月から10月までで、毎年生徒を募集している。2011年は30名程が集まった。中には10年以上参加していて、かなりの腕前を持つ生徒もいるのだという。
また、5月から9月の間は体験も可能で、夏休み期間中は特に賑わう。芳賀さんも、「観光資源として藍染めが力になっているのが分かる」と顔をほころばせる。
「自分の代で藍染めが終わってしまっては淋しい。生徒の中から次の職人が生まれ、教室を拠点に文化の伝承が出来ればいい」と芳賀さん。
教室の皆さんが作った作品は、現地で買い求めることができる。販売品目は、主にハンカチ、バンダナ、風呂敷などである。手にとってみると、一様に作品の質は高く、既に「職人」と呼べる人材が育っているのが分かる。
芳賀さんは「田島で最後の藍染め職人」として紹介されることが多い。しかし文化の継承は現在進行形で行われており、確実に後進が育っていることを強調しておかなければならない。
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