伊南 川流域の歌舞伎の歴史
上州街道(現在の沼田街道)によって栄えた伊南川流域では、かつてたくさんの歌舞伎舞台があり、人々の楽しみとなっていた。時代の流れと共に衰退を余儀なくされたが、現在もいくつかの常設舞台が残っており、毎年大桃の舞台には田島の祇園祭屋台歌舞伎が上演にやってくる。2013年には
写真:伊南地区に残る組み立て式舞台、青柳の舞台。平成25年に65年ぶりの公演が行われた。
取材ご協力:伊南村史編纂室 河原田宗興さん
写真使用:伊南村史 第一巻 通史編より
写真使用許可:伊村村史編纂室
参考文献:伊南村史 第六巻 民俗編
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南会津は歌舞伎が非常に盛んな地域で、福島県内で確認されている歌舞伎舞台・一座の約半数が集中していると言われている。伊南川流域でも、現存する
県内で最も古い、能狂言の記録が残る地域
歌舞伎は
この風潮から女歌舞伎が誕生するが、幕府によって「風俗を乱す」との理由で禁止される。結局「
伊南川流域の歌舞伎は、これらの歌舞伎狂言の流れとは異なり、室町時代に盛んであった能狂言の流れを汲む。当時の南郷村大橋に住む
麻などの産業を通し、上方との交流があった
なぜ伊南川流域で歌舞伎なのか。それはやはり経済の力が大きく影響している。この流域では、麻を中心とした繊維織物業が盛んであり、江戸はもちろん、上方との行き来が頻繁にあった。
現在伊南川に沿って走っている国道401 号は、尾瀬の環境を守るため、群馬県との間で車道は分断されている。だが、当時は群馬と会津とを結び、人も物も頻繁に行き交う主要道、「上州街道」(後に沼田街道と呼ばれるようになった)であった。歌舞伎をはじめ、多くの芸能は経済と道の恩恵を受け、この地に流入したのだ。
江戸時代は、人が集まることによる一揆の発生や、農作業への影響を恐れ、歌舞伎は禁止される方向にあったが、伊南川流域では途絶えずに続いた。また、戊辰戦争によって会津盆地では大きな痛手を被ったため、しばらく歌舞伎が上演されることはなかったが、この地ではその頃も変わらずに盛んであった。
習い芝居と買い芝居
歌舞伎には自分達で行う「習い芝居」と、他地域からプロの一座を呼んでくる「買い芝居」とがある。初めのうちはどこも習い芝居が多く、その衰えと共に買い芝居が増えていったと見られている。
昭和20年代頃までは、習い芝居が各集落で盛んに行われていた。大桃などの常設の舞台の他、組み立て式の舞台が各所で使われ、稲刈り後の田んぼなどで上演された。
しかし、戦後は他の娯楽に押されて急速に衰えていった。現在南会津町西部地域では、常設舞台として伊南地区の大桃の舞台、
こちらでは、例年8月上旬に郷土芸能の祭典「大桃夢舞台」が行われており、田島祇園祭屋台歌舞伎(こちらのページ参照)の子供達が上演しにやって来る他、青柳の笠踊り(こちらのページ参照)など西部地域の郷土芸能が出演する。
一方、組み立て式舞台は多くが昭和30〜50年代に処分されてしまったが、唯一青柳の舞台だけが組み立て可能な状態で残されている。近年地元の有志達によって舞台復活への機運が高まり、県の補助金を得ながら改修、ついに平成25年8月に復活を遂げた。実に65年ぶりとなる舞台上演であった。
こちらの「田島祇園祭屋台歌舞伎」の記事でも言及したが、今後は南会津町全体で歌舞伎をさらに盛り上げていきたいとのこと。青柳の舞台復活は一つの契機となったが、町全体でさらに伝統文化が盛り上がりを見せていくことだろう。
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