舘の早乙女踊り - 郡青ひなたweb
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(たて)早乙女(さおとめ)踊り

春の訪れを告げる、田植えの予祝舞(よしゅくまい)
古くから伝わる湖南の伝統芸能

取材ご協力、写真ご提供:舘早乙女踊保存会 橋本勝雄さん
参考文献:「舘の早乙女踊りの話」昭和47年、舘早乙女踊保存会

毎年4/1に御札神社にて開催。
お問い合わせは、郡山市立湖南公民館 (TEL 024-983-2543)

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 湖南町舘では、古くから早乙女踊りが伝承されてきた。嘉永(かえい)4年(1851年)に舘村(当時)の八郎治という人が、会津田島の太神楽三太夫(だいかぐらさんだゆう)の弟子となり、後に名太夫として知られるようになる。この人が当時会津で盛んであった早乙女踊りを舘に持ち込み、以降この地で踊られるようになったと言われている。
 大正時代に村内でスペイン風邪が流行したことを受け、一時中断、昭和37年に保存会が結成されて再開する。昭和43年には郡山市の重要無形民俗文化財に指定された。

 こうした歴史からも分かるとおり、舘の早乙女踊りは基本的に会津系の流れを汲む。ただ、最初に舞口上(まいこうじょう)が入ったり、囃子には三味線が入る、またヘラと扇子で踊ったりと、ところどころに会津系にはない特色が見られる。中通りや浜通りの影響も受けていると考えられており、地理的に中通りと会津の境にあるという、文化の特色が現れている部分であろう。
 そもそも早乙女踊りとは、田植えの時に早乙女達が歌う仕事歌である。また、豊作を祈る予祝舞の意味も持つ。春の種まきから秋の収穫までの作業過程を演じ、農業が盛んな東北地方では広く芸能化されて、「田植え踊り」として親しまれてきた。会津ではこの中から早乙女の部分を取り出し、美しく演じているのだ。

 このような意味を持つ踊りであることから、田植え前である春の初め、現在では4月1日に舞われている。かつては各家を回りながら、座敷等で踊りを披露していた。これが早乙女踊りの基本的な形である。だが、現在は時代の移り変わりにより、御札(おふだ)神社の拝殿内で行われている。
「早乙女」と言うが、舘では大正の中断以前は男の踊り手が女装をし、女性は参加しなかったそうだ。さらに、長男のみが参加できたそうである。これは確実に実家に残り、今後も伝統を継承していくことができる人だけに、参加を限ったためである。しかし徐々に女性の「早乙女熱」も高まっていき、昭和の再開後は踊り手は全て女性になった。現在は踊り手が5人以上、ささらすり(男性)1人、これに笛、太鼓、三味線、唄が付く。ささらすりは道化役であるが、田の神の化身であると考えられており、重要な役割を持つ。踊り子の持つヘラは鍬、扇子は苗の喩えである。

 踊りの時間は10分程度だ。田の神の出世物語を歌ったものと、作業歌の2つである。神社で舞われるようになってからは大分簡略化され、筋が通らない部分もあるそうだが、工夫しながら演じている。演者はほぼ経験者ばかりなので、練習自体は4月1日の奉納の前に2〜3回程度で済む。
 保存会の橋本勝雄さんは「せっかく市の文化財なのに、年に1度の披露では淋しい。他地域でも舞えるよう、積極的にイベント等にも参加していきたい」と語る。
 少子高齢化の中、今後は参加する人をいかに増やしていくかがテーマとなる。地元の学校の生徒達にも、折を見て魅力を伝えている。
「裾野を広げ、少しでも若い人が入ってくれれば」と橋本さん。「文化財だという認識を持ち、皆で協力しあう体制を作っていきたい」

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