札所10番~20番 湯川村~会津若松市 - 郡青ひなたweb - Page 2
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16.平沢観音

御詠歌

国道49号で市街地に入る。スズキの看板を掲げる自動車工場を北に入ると、平沢の集落だ。
公民館を通り過ぎ、道が細くなると間もなく観音堂に辿り着く。車で訪れる場合、止める場所を慎重に見極めなければならない。(行き過ぎると畦道になる)
住宅が途切れ田園に変わる地点で、遠く見える山並みが美しい。

お堂の歴史は、詳しく語る文献が少ない。歴史春秋社の『会津三十三観音巡り』でも、観音堂を司っていた国姓寺(曹洞宗広沢山国姓寺)の記述があるのみだ。同寺は文禄元年(1592年)に僧・林廓によって創建されたとされる。

ご本尊は聖観世音菩薩。

御詠歌

まいりきてうき世をここに忘れおく こころおよばぬひろさわの月

浮世(憂き世)を忘れるほどの名月が見られる場所なのだろう。歌額の表記にあわせ、「ひろさわ」とした。

会津若松市町北町中沢字平沢419

17.中ノ明なかのみょう観音

御詠歌

平沢観音から南東へ1キロほど、国道49号の南側に位置する。目印は中ノ明公会堂。真言宗の密蔵院(寺院)と並んで立ち、左手は墓地になっている。

お堂の歴史は、案内看板に詳しい。
天文元年(1532年)、村の北部にある大沼の底から、光明を放つ一寸八分の正観音(聖観音)像が村人達の手で発見された。村人達は一町西の小高い丘に観音堂を建て、手厚く信仰した。

それから70余年、村で病気が流行した。神告によれば、病気は観世音の祟りであるとのこと。像を元の沼地に戻すか、寺院にお堂を建て安置するしかない。
村人達は安全のため、現在地に安置することにした。

現在に至るまで、永く集落で信仰を集めている。

御詠歌

まいるより頼みをかけし観世音 沼木の沼に浮かぶみづ鳥

御詠歌でも観音堂の歴史を物語る。ここでは案内看板にあわせ、「詣る」と表記した。

会津若松市北町始字中ノ明119-2

18.滝沢観音

観音堂
入口には赤いのぼりが立つ
白糸神社と白糸の滝
御詠歌

会津若松の市街地を飯盛山の方向へ向かう。目印にするのは、戊辰戦争で本営となった史跡・滝沢本陣である。
本陣前の道路を山に向かって直進し、看板に従い進んでいく。やがて隘路となり、舗装も途切れ、林道を走ることとなる。右手に赤いのぼりが見えてきたら、ようやく入口だ。会津三十三観音で、最も訪れづらいお堂だろう。

山の緑と清流の流れ、滝の音に包まれて、厳かな雰囲気に心が引き締まる。ここは白糸神社の神域だ。
参道を進み、目につくのは見事な滝。白糸が垂れたように見えることから(異なる説もある)、「白糸の滝」と呼ばれている。滝に向かい、右手が白糸神社、左手が不動堂と観音堂だ。

観音堂は慶安3年(1650年)に一箕いっき八幡神社の拝殿西側に建立された。その後廃仏毀釈により、明治元年(1868年)に当地に移転した。
八幡神社にも観音堂が残されており、札所の額も掲げられている。

戦時中は、お堂に右の下駄を奉納し、生きて帰れるよう願う風習があったと言う。無事に帰れたときには、左の下駄を奉納した。
奉納の風習は、現在でも残っているようだ。

ご本尊は聖観世音菩薩。仏師・春日の作と言われている。

御詠歌

たきさわに落ちて流るる滝の水 かかる末々みろくなるらん

滝の流れと、後の世、あるいは未来を重ねているのだろうか。歌額では「たきさわに朽ちて~」と読める。

会津若松市一箕町八幡滝沢

19.石塚いしづか観音

御詠歌

西若松駅の近く、町うちにある観音堂だ。只見線の線路をまたぐ陸橋の側道に位置する。
会津三十三観音で、最も人目につきやすいお堂だろう。電車で手軽に参拝できる場所でもある。

参道に入ると両側を木々が取り囲む。世間の喧騒から隔絶され、気持ちが引き締められる。

この観音堂は、南北朝時代の康暦年間(1379年~)に葦名直盛により建立されたと言われている。佐原義連が随身した十一面観世音像と、聖観世音像が一緒に奉納された。

その後、蒲生忠郷の時代に再建。千手観世音像が納められた。

お堂は明治5年(1872年)の大火で消失したが、平成11年(1999年)に再建されている。

現在のご本尊は千手観世音菩薩。胎内仏として聖観世音も祀られる。

御詠歌

のち乃世は願ふこゝろはかろくても 佛の誓い重きいしつか

地名をうまく利用し、仏教の誓いを立てる重さを表現している。

会津若松市川原町5-50

20.御山おやま観音

なぜか御詠歌を撮った写真が見つからない。新しいお堂のため、歌額がまだ奉納されていないのかもしれない。御詠歌は案内板で確認できる。

石塚観音から南東へ向かい、門田もんでん町に入る。あいづドームの裏手に入り、集落の細道を進んでいく。
周辺はみしらず柿や桃の産地で、家並みがなくなると一面に果樹園が広がる。市街地から近い場所で、このような風景が見られることに驚かされるだろう。

観音堂の所在地である「照谷寺」の案内板が、分岐ごとに立てられている。農機や軽トラをよけながら案内どおりに進むと、道の果てに立派な寺院が見えてくる。

観音堂の始まりは、大同2年(807年)。北東にある岩屋山上の岩窟に建立された。
安置された聖観世音菩薩の胎内には、源頼義・義家が東征の戦勝を祈願した守護仏が納められている。

江戸時代中期には会津三十三観音霊場に選定され、民衆から篤い信仰を集めた。岩屋山には「子持岩」と呼ばれる岩があることから、子授けの観音様として信仰されたようだ。
しかし二度の盗難にあったことで、ご本尊のみ照谷寺に奉安された。

それからというもの、観音様を山上のお堂に遷しながら祭礼を執り行っている。山上のお堂は風雪で老朽化したため、平成4年(1992年)に現在地に建て替えられた。

御詠歌

はるばると登りておがむ岩屋山 いつもたえせぬ松風の音

岩屋山上のお堂まで、人々がはるばる登山しお参りしていた様子が窺える。

会津若松市門田町御山字館山甲3080

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