札所21番~30番 会津美里町 - 郡青ひなたweb - Page 2
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26.冨岡観音(福生寺観音)

立派な山門
御詠歌

冨岡観音は領家観音堂から450メートルほどの歩ける距離にある。道なりに西へ進めば辿り着く。
立派な山門は仁王門で、堂々たる佇まいからは歴史ある寺院の風格が感じられる。

周辺にはかつて市が立ち、賑わった場所のようだ。その賑わいから、「冨岡」との地名がついた。

藤田定興氏の『神と仏の信仰』(歴史春秋社,2011)によれば、江戸時代の寛文年間には当観音堂を33番札所に据えていた時期もあったようだ。寛文5年(1665年)の『高田組郷村万改帳』にこのお堂が打ち止めである旨が記されているとのこと。
当地が最後の札所だった事実から、氏は会津三十三観音の発願・開設者は冨岡村の人物ではないかと推測している。

お堂の建立時期は定かでないが、「文安3年」(1446年)と書かれた巡礼札が見つかったことや、「応永33年」(1426年)の銘がある鰐口わにぐち(参拝で慣らす銅でできた打金)の記録があることから、15世紀前半の建立だと考えられている。
禅宗様式の装飾的な建物で、国の重要文化財に指定されている。

ご本尊は十一面観世音菩薩。秘仏で、毎年8月9日の四万八千日祭で年一回御開帳される。
西国三十三観音の33番札所である谷汲山華厳寺の観音様とは一躯分身説がある。当観音堂の歴史の深さが感じられる。

御詠歌

あさぼらけ賑わう里にたつけむり まことに人をとむる冨岡

かつての賑わいが想像できる。願いをかける人がたくさん訪れたのだろう。

大沼郡会津美里町冨川字冨岡27

27.大岩観音

深い山中のお堂。黒いトタンは山の景色に映える
岩の下には祠がある
御詠歌

県道128号会津若松会津高田線を西へ進む。国道401号に出たら南(博士峠方面)へ。西本簡易郵便局を過ぎたら、右折し細道を進む。細道の入口には、大岩観音堂と、明神ヶ岳登山道入口の小さな案内板が立てられている。

細道を延々と登り詰めると、突如車通りのまったくない二車線舗装道路と交わる。この道は「緑資源幹線林道」と呼ばれる道だ。かつて飯豊町(山形県)と桧枝岐村を結ぶ長大な計画があった。新鶴~柳津区間の整備計画は進められているようだが(※1)、現状は未成道だ。この場所こそが、大岩観音の入口となる。

車を停めたら、5分程度山道を歩く。登りは緩やかで、ところどころに看板もある。歩きやすい靴なら問題ないだろう。ただし熊対策だけは忘れずにおこないたい。(県内の山はどこも熊対策が必須)

山の奥だけに、雰囲気が良い。大きな岩がそびえ、岩の前にお堂が立つ。
黒いトタン造りは独特の見た目だ。これは二度の雪害で再建を余儀なくされたためだ。耐久性や補修のしやすさを優先したのだろう。

開基は大同2年(807年)、徳一大師による。
白雲の中に立つカツラの大樹で彫った聖観世音菩薩がご本尊として祀られている。

※1(参照:事前評価実施地区取りまとめ個表 | 福島県

御詠歌

山深み池に流れの音添えて 浮世の夢を洗う松風

深い山中へ歩を進めるうちに、心が研ぎ澄まされ、本当に浮世の夢が洗い流されるようだ。

大沼郡会津美里町西本(以下不詳)

28.高田たかだ観音

御詠歌

山を下り、一転、町の中に入る。高田観音は、会津高田駅からも近く、会津美里町の中心市街地に位置する。
住宅が立ち並ぶ道路は狭いため、車でのお参りには十分に注意したい。入口は高田厚生病院側だ。

このお堂は、元慶元年(877年:翌年とする文献もあり)に、光孝天皇の皇子である観祐(観裕)が発願・建立した。かつては東に500メートルほどのところに建てられたが、寛永13年(1636年)に現在地に移転した。

創建以来、戦災や火災にあうことが多く、戊辰戦争ではお堂が消失した。現在のお堂は明治23年(1890)年に再建されたものだ。再度の火災を避けるため、土蔵造り、絵入りの格子天井となった。

ご本尊は十一面観世音菩薩。温もりがあり、「人肌観音」とも呼ばれている。
以前は33年に一度しか開帳されず、見られる機会はほとんどなかった。現在は年に一度、8月10日に半開帳されている。

御詠歌

むかしよりたつとも知らぬ天王寺 奥の細道とどろきの橋

観祐は30歳のときに十一面観音像を背負い籠に収め、地方行脚の旅をしたという。高田に立ち寄ったさい、法性清水の水を飲んだところ、菩薩の像が厳然と現れた。それを安置したのが観音堂の始まりだと言われる。御詠歌でも、この伝承を歌っているのだろう。

(参照:天王寺の縁起 | 高田山天王寺

大沼郡会津美里町字高田甲2968

29.雀林すずめばやし観音(法用寺観音)

御詠歌
三重塔

北西に向け、只見線沿いの道を行く。市街地を抜けると、田園の向こうに山並みが広がる。
佛照寺の前で右折し、しばらくで雀林の集落に着く。集落内の隘路を西の外れまで進めば、雀林観音堂だ。

この観音堂は会津三十三観音の中でも最大級の立派なものだ。独立した銅鐘や、宝形づくりの屋根、屋根頂上の宝珠など、荘厳な雰囲気がある。
堂内には、国指定重要文化財の厨子ずし(ご本尊や位牌を安置する仏具)や、ケヤキの一本造りで彫られた金剛力士像など、貴重なものが多い。

観音堂のある法用寺は、養老4年(720年)に徳道上人により開創された。徳一大師が慧日寺を開く以前は、会津における仏教文化の一中心地として栄えていた。立派な佇まいからは、往時の興隆が想像できる。

観音堂は集落の西1.5キロの堂平に建立された。大同2年(807年)に火災にあい、徳一大師によって現在地に再興された。

ご本尊は2躯の十一面観世音菩薩。火災で炭化した火中仏も現存しているが、一般に公開しない秘仏となっている。

広い敷地には、会津に唯一現存する三重塔も見られる。

御詠歌

めぐり来て西をはるかに眺むれば 雨つゆしげき古かたの沼

お堂の南西方向に、古潟沼がある。蓋沼ふたぬま森林公園の一部で、ため池として機能している。

大沼郡会津美里町雀林字三番山下3554

30.中田なかだ観音

御詠歌

雀林観音堂から北上すること2キロ程で、中田観音に辿り着く。只見線の根岸駅から徒歩10分程度で、電車を使っての参拝も可能だ。

中田観音は「会津ころり三観音」にも選ばれており、毎日参拝客が絶えない。会津三十三観音では、誰とも会わない札所も多いことから、「賑やかな場所に来た」と感じられるだろう。
古くから人々に親しまれ、野口英世の母・シカも信仰していたという。

お堂の内外には「だきつき柱」がある(堂外は旧柱)。抱きつけば念願叶うとされ、多くの参拝者が柱に抱き着く様子が見られる。

お堂の歴史は文永11年(1274年)に始まる。左布川村の江川長者が、病で亡くなった娘・常姫のために十一面観音像を鋳造し、この地に安置した。

常姫は法用寺(札所29番)を参拝した際、参詣する人々の貧しい姿を気にかけた。中田の地頭・富塚盛勝と財産を出し合えば人々を救えると考え、盛勝のもとへ嫁入りを希望する。しかし念願叶わず、病でなくなってしまった。
父である江川長者は、娘の供養場所として、常姫が優しい心を向けた中田の里を選んだ。
弘安2年(1279年)には、盛勝が伽藍を造営した。それが現在の弘安寺(観音堂がある当地)である。

ご本尊の両脇には、地蔵菩薩、不動明王が安置されている。このような祀られ方は、全国的に大変珍しいようだ。

御詠歌

めぐり来てよもの千里を眺むれば これぞ会津の中田なるらん

現在、少し西側の道路からは北、南、東に視界が開ける。盆地と山々が織りなす美しい風景は、「来てよかった」と心から実感させてくれる。

大沼郡会津美里町米田字堂ノ後甲147

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