6.勝観音(勝福寺観音)
喜多方市街地に戻り、雄国沼の方向へ進む。県道337号喜多方河東線で上勝の集落を抜けると、間もなく道路沿いに木々が生い茂る一角が見えてくる。勝福寺観音堂だ。
開創は定かでないが、伝承が語り継がれている。
かつて勝御前という女性が京から松島へ向かう途中、当地で亡くなった。女性の父である中将某が、冥福を祈り観音堂を建立したというものだ。
現在でも地名に伝承の影響が見られる。
お堂は建立後に一度消失している。消失の時期は文献によって異なり、天文年間(1532年~)とも享禄2年(1529年)とも言われる。
永禄元年(1558年)に会津領主の蘆名盛興により再興された。
お堂には和様の要素が多く取り入れられ、独特の平面がある。
ご本尊である十一面観世音菩薩の体内には、勝御前が持っていた霊像が納められたと言われている。
御詠歌
陽照るとも山の氷はよもとけじ 里にしぐれのあらんかぎりは
当地の厳しい気候が表現されている。
喜多方市関柴町三津井字堂ノ上630
7.熊倉観音
勝観音堂から県道337号喜多方河東線を東へ進む。大塩川を渡る手前、県道69号北山会津若松線との交差点付近が、蒲生氏郷の時代から続く熊倉宿である。
商家や人家が立ち並ぶ風景には、宿場町の風情が残る。
観音堂は、交差点を北東へ進み、道路が狭くなる手前にある。光明寺の境内に建てられており、入口には寺名を記した看板が掲げられている。
家並に溶け込んでいることもあり、初見では分かりづらいかもしれない。
お堂の開基は永正17年(1520年)、僧・江月による。
天正年間(1573年~)に伊達軍の侵攻で消失したが、安政5年(1858年)に再建された。
ご本尊は行基作とも慈覚作とも言われる千手観音。兵火の渦中で焼失を免れた。
御詠歌
ふるさとをはるばるいでゝ熊倉の ほとけに参る身こそやすけれ
当時の巡礼者の強い心持ちが感じられる。
喜多方市熊倉町熊倉字熊倉837
8.竹屋観音
熊倉宿から県道69号北山会津若松線を南下する。駒形地区に入り、東に進路を変えると竹屋集落だ。
集落の細道を入ると曹洞宗観音寺と、竹屋観音堂がある。観音堂は右手の山際に位置する。石段を上り山門をくぐる風景が美しい。
お堂の歴史は天正元年(1573年)に遡る。越後の木翁快元という僧が、地域の山下にお堂を設け、運慶作の如意輪観音を安置したのが始まりだ。この土地は狭く、慶安4年(1651年)に現在地に移転する。
その後、正徳年間(1711年~)に再建された。
会津三十三観音で、如意輪観音を祀るのは本堂のみである。右立膝、右手は頬、左手は床に置いた独特の姿勢をしている。
古くから安産・子育てを祈る観音として信仰されている。
御詠歌
けさの日ははるか竹屋の観世音 いそぎ参りて拝め旅人
この句も地名が掛詞で技巧的に使われているのだろう。
喜多方市塩川町中屋沢字台畑丙697
9.遠田観音
遠田は、国道121号線や、磐越西線・塩川駅よりも西側のエリアだ。札所1番から、時計回りに一周したような形になる。
県道127号会津坂下塩川線から、下遠田地区に入る。地区内の細道を進むと参道になり、なぜかお堂の裏手に出る。どうやら川の方向が正面のようだ。
敷地内には薬師堂、地蔵堂がまとまって建てられている。
創建時期は不詳。
旧観音堂は柱に金を使用し、屋根は檜皮葺(日本古来の伝統的手法)だった。壮麗な姿を想像できる。
現在のお堂は文政4年(1821年)の改装だと言われる。
ご本尊は千手観世音菩薩。
御詠歌
後の世を願う心を照らすらん 遠田の沖に出づる月影
沖という言葉で表現されているのは、日橋川の風景か、一面の田園か。
喜多方市塩川町遠田字谷地中3227
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