厩嶽山祭りと山岳信仰
参考文献
・慧日寺資料館常設展示解説シート
・第14回厩嶽山祭り・山開き(現地配布資料) | 厩嶽山祭実行委員会
・磐梯町歴史的風致維持向上計画 | 磐梯町
厩嶽山祭り・山開き
実施日:例年6月の第3日曜日
お出かけの際は、磐梯町ホームページ、磐梯町観光協会ホームページ等で最新の開催情報をチェックしてください。当記事は、平成25年実施の厩嶽山祭りに参加した体験をもとに構成しています。コロナ禍を経た今、実施要項が変わっている可能性があります。
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磐梯山、厩嶽山、羽山などの名峰が連なる磐梯町には、古くから山岳信仰が根付いてきた。厩嶽山は会津地方における馬頭観音信仰の中心地であった。かつては農耕馬を連れ、山に登り参拝する人が跡を絶たなかった。
厩嶽山の祭礼は馬頭観音信仰の中で生まれ、1300年もの歴史を刻む。1955年(昭和30年)に一旦途切れるものの、2000年(平成12年)に復活した。昔のように馬と一緒に登山することはないが、出発から登山口まで白馬が先導する。
ここでは当地における山岳信仰の説明も交えながら、厩嶽山の歴史に触れる。また実際に厩嶽山祭りに参加し、登山した様子を写真で紹介する。
山岳信仰とは
昔の人はなぜ山を信仰したのか。
理由は2つある。一つは、高い山には神が降りて住み着くと考えていたからだ。高い山は、頭を雲の上に出すときもある。天界との結びつきを想像しやすかったのだろう。
もう一つは、祖霊信仰とのかかわりだ。
人の魂は死後、生前住んでいた家を見下ろす山へ行き、年月を経るごとに麓から頂上へ移動すると考えられた。
魂は里に近い山を本拠とし、春には里に帰り、冬には山に籠もるとも言われた。
祖霊(先祖の霊)を祀ることは、霊が宿る山の信仰と結びついたのだ。
当地はどこからでも連峰を仰ぎ見られることで、山岳信仰が根付きやすかったのだろう。
(参照:神社ものしり辞典 第7章 先祖のまつり | 福島県神社庁)
山岳信仰・祖霊信仰と馬頭観音信仰との結びつき
山岳信仰・祖霊信仰において、山は幽界と現世を結びつける存在だ。祖霊が山と里とを行き来するときに、利用するのが馬だと考えられた。
馬で山を下れば、幽界から現世へ戻る。馬で山に登れば、現世から幽界に旅立つことになるのだ。
山岳信仰・祖霊信仰が盛んであれば、自然と馬を大切にし、信仰する文化も生まれる。厩嶽山が馬頭観音信仰の中心となったのも、自然の流れだろう。
厩岳山と厩嶽山祭りの歴史
厩岳山は700年代に行基によって開かれたとされる。馬頭観音信仰の中心として栄え、農耕馬の無病息災や供養、安全守護を願う人々が登山するようになった。
当時は大寺、大曲、源橋地区の馬頭観音石碑を巡り、馬と一緒に登ったようだ。
お参りの習慣は、農耕馬と暮らす広い範囲の人達に知られるようになる。次第に「厩嶽山祭り」として、旧暦6月16日の夕刻に開始されるよう慣例化した。
会津地方はもとより、郡山の湖南や安積郡から参拝者が押し寄せたという。
地元青年団が、豊年踊りで盛大に参加者を歓迎した時期もあった。
しかし、機械化で馬が農耕に利用されなくなるにつれ、祭りも変化を余儀なくされた。
1955年(昭和30年)にはついに途絶する。しばらく空白の状態が続いたが、地元の熱意により2000年(平成12年)に復活した。
以降、恒例行事として現在まで受け継がれている。
現在の祭礼は6月の第3日曜日、榮川酒造の駐車場を出発地としておこなわれる。
磐梯明神太鼓の演奏など、セレモニーで登山客をもてなす。8時半頃から白馬を先頭にスタート。
白馬は登山口までの同伴だが、祭りの目玉だ。昔の参拝風景を想像できる貴重な機会である。
※筆者は2013年の第14回厩嶽山祭りに参加。その様子をレポートしています。最新の情報は、磐梯町ホームページ、磐梯町観光協会ホームページ等をご覧ください。
厩嶽山登山
厩嶽山は標高1261メートル。雄国沼方面からも登れるが、祭礼では榮川酒造側の登山口を利用する。
榮川酒造の南側に、北堰赤枝林道の入口がある。林道を400mほど入ると登山道が分岐し、北へ向かう。
分岐後は、平坦な道がしばらく続く。伐採地から雑木林へ、次第に景色が変わる。
高度を上げるまでのアプローチは、私にはひたすら長く感じられた。途中までは車でも入れるため、祭礼日でなければ、車の利用が現実的だろう。
少ないながら駐車スペースも設けられている。
道中みられる西国三十三観音
本格的な上りになると目につくのが、西国三十三観音の石仏だ。下から順に一番から三十三番まで、石仏と説明板が設けられている。三十三番まで辿るころには、馬頭観音堂に到着できる。登山をしながら、西国三十三観音めぐりも済ませられるのだ。
奉納されたのは明治期。説明板には奉納者の居住地と名前が刻まれている(不明なものもある)。居所を見ると地元が多い。当地での信仰の深さと、馬への愛情が感じられる。
なお、33のうち2つは未発見のため、石仏すべてにはお参りできない。それでも三十三観音参り独特の雰囲気が、疲れを忘れさせてくれるに違いない。御詠歌の意味を想像しながら登るのも良いだろう。
馬頭観音堂と山頂
馬頭観音堂があるのは山頂手前だ。
厩嶽山の馬頭観音菩薩像は鎌倉時代後期の造像と推定され、三面八臂の寄せ木造りである。
実は、現在この場所に観音像は存在しない。お堂の荒廃にともない、麓の恵日寺本堂に遷されたのだ。厨子は慧日寺資料館に保存され、屋外の馬頭観音覆堂で拝覧できる。(※注)
この場所には、御札や額、観音堂再建の碑などを残すばかりである。それでも、お堂の雰囲気は暗くない。手入れが行き届き、人々に愛されているのがわかる。
この日の登山者も、皆手を合わせていた。
お堂近くには、行基清水と名付けられた湧き水もある。休憩がてら喉を潤すと良いだろう。
馬頭観音堂から山頂までは、20分程度の道のりだ。勾配がきつく、体力を削られる。
山頂からは、雄国沼、飯豊山、吾妻連峰などが一望できる大パノラマが広がるようだ。この日はあいにくの曇り空。景色が開けなかった。
山頂の看板前で記念撮影をおこない、下山した。
※注)馬頭観音堂に安置されていた厨子は、以下の特集に掲載しています。あわせてご覧ください。なお、慧日寺資料館は12月〜3月は冬季閉鎖です。
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