高玉金山 - 郡青ひなたweb
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高玉(たかたま)金山

一時代を築いた、日本三大金山
400年の歴史と、その栄華を伝える

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取材ご協力:高玉金山管理組合

高玉金山
住所:〒963-1303 郡山市熱海町玉川字横道15
営業休止中のため、住所以外の情報掲載は控えさせていただきます。

※高玉金山は2021年現在、営業を休止しています。あくまでも取材時の記録として掲載いたします。熱海町の観光情報によると、営業再開の予定はあるようです。
なお、再開情報が分かる方がいらっしゃいましたら、ご教示いただけると助かります。

※情報提供ご協力のお願い※

 このサイトでは、主に2007年~2013年にかけて取材をした記事を掲載しています。そのため、情報が古くなっていたり、掲載が不適切なものがあるかもしれません。
 取材対象者の方をはじめ、地元の方、歴史に詳しい方など、もしもお分かりになる点がございましたら、コメント欄、またはお問い合わせフォームより、ご教示いただけますと幸いです。
 また、観光客の方で実際にお出かけになる場合は、掲載している自治体観光課、観光協会等へ日程をご確認ください。特に新型コロナウイルスの流行以降、行事自体を開催していない場合があります。当サイトは、性質上、最新の観光ガイドにはなれませんので、ご容赦ください。

トロッコに乗り、神秘の世界へ! 往時の姿を残す鉱山を冒険する

ここからトロッコに乗って坑道へ。
トロッコ積込所。採掘された金は、ここからトロッコで搬出された。
大竪坑。エレベーター構造になっていて、階層になっている鉱山内を上下に結んでいた。

 高玉金山は熱海町中心部から北東方向へ4〜5キロ程、玉川の集落を抜けた先に位置する。日本三大金山の一つとして興隆を極め、地域を代表する産業として一時代を築いた。現在は観光施設に転換され、その歴史と栄華を伝え、今なお残る金鉱脈を見学することのできる貴重な施設である。

蘆名氏によって開山、昭和初期に最盛期を迎える

日本の金山の歴史は古く、陸奥国(みちのくのくに)では天平(てんぴょう)21年(749年)に現在の宮城県内で砂金が発見されたと言われている。高玉金山は天正(てんしょう)元年(1573年)に会津領主であった蘆名(あしな)氏により開山され、会津領を支える大きな役割を果たした。本山(もとやま)(うぐいす)青木葉(あおきば)の3坑部を擁し、現在見られるのはこのうち青木葉のものである。豊かな金山を所有していることは強みであり、寒さで米の収穫が難しくとも、会津領はこの金山のおかげで裕福であったと言われている。
 天正17年(1589年)の摺上原(すりあげはら)の戦いにより、蘆名氏を打ち破った伊達氏に山の所有が移るが、すぐに豊臣秀吉による奥州仕置により、伊達氏は会津の領地を取り上げられる。会津には蒲生氏郷(がもううじさと)が入り、高玉金山も蒲生氏により管理された。
 当時、武器の調達や、豊臣・徳川家への献上物として金の獲得は大変重要であった。秀吉は蒲生氏に命じて、3ヶ月に1回ここの金を大坂に運ばせたという。それにより秀吉の金の茶室が作られたそうだ。
 江戸時代になると、徳川家康が佐渡金山を開山し掘り始める。その影響で高玉金山は影が薄くなってしまが、細々と採掘は続いていた。これは過度に掘ることで、幕府から目を付けられるのを恐れたためだと言われている。
 こうした背景もあり、高玉金山は明治時代になっても掘り残しがたくさんあった。折しも明治政府は富国強兵を掲げ、金山はその一翼となっていく。高玉も日本の近代化に大きく貢献した。
 最盛期を迎えるのは昭和初期のことだ。この頃は日本鉱業が経営権を握っていた。昭和10年(1935年)には実に年間1トン以上の金を産出したという。1500人あまりの鉱夫を抱え、4000人あまりの人口を誇った。山の中がひとつの町のようになっており、理容室や映画館などの娯楽施設まで作られていたのだという。
 しかし時代が流れるにつれて、次第に状況が変化してくる。高度経済成長が始まり、人件費が上昇。それに対して金の価値が伴わなかったため、採算が合わせられなくなってきたのだ。昭和51年(1976年)、長年に及んだ生産を全面休止。総生産量は、昭和だけでも金28トン、銀280トン、採掘総延長は実に870キロであった。鉱脈数は1000条を超え、掘られた横穴は21000本に上るとも言われている。

採掘総延長 870キロ、金の鉱脈数1000条以上。
人の手による掘削は努力と苦労のたまものだ。

金鉱脈。真ん中に通る一条の筋がそうである。
コトコト走るかわいいトロッコ列車。

先人の苦労を語り継いでいきたい

 この歴史ある金山を後世に伝えようと、閉山から20年を経た平成8年(1996年)、高玉金山は観光施設へと転換を遂げ、「ゴールドマイン高玉」として再開坑した。平成16年(2004年)には高玉金山管理組合が運営を始め、さらなる整備にあたっている。
「日本を支えた産業の一つであったことを、多くの方に知ってもらい、先人の苦労を語り継いでいきたい」と話すのは、保存会会長の原田友義さんだ。原田さんはボランティアとしてトロッコを運転し、坑道内の案内役をしている。案内をかってでる職員は、原則皆ボランティアで、年中無休、交代で勤務している。
 筆者も実際に原田さんに案内をしていただき、坑道の中を見学させていただいた。レトロなトロッコ列車に乗り込むと、冒険にでも旅立つ気分だ。このトロッコは一両につき定員8名で、50名程度まで編成をつないで対応できる。
 奥へ奥へと入るほどに、その広さに驚かされる。少し登るようにして進むのは、搬出時のことを考えてのことである。
 トロッコが走る部分は当時から鉱夫の出入りや金の搬出に使われていた、いわば大動脈だ。坑道の幹となる部分である。そこからいくつも小さな坑道が枝分かれしていき、その枝道がまた分岐を繰り返す。さらに、内部は階層構造になっており、下方に15階、上方に4階分があるという。上下には大竪坑(だいたてこう)が掘られており、エレベーターで結ばれている。搬出時はここを通し、荷物をこの階に集積させ、トロッコに積み込んで運ばれていたのだ。
 金山というと岩がキラキラと光っているようなイメージがあるかもしれないが、実際にそのようなものは存在しない。まずは硬い岩盤を掘りながら鉱脈を探し当てる。それを見つけることができれば、鉱脈を辿りながら掘り進めていけばよい。21000本を掘って、ものになったのはたった1500本程だというから容易な作業ではない。
 このような地道な作業を行うため、鉱夫は朝夕の2交代制で、一度に500人から600人ほどが中に入って作業にあたった。そうして金鉱石を掘り出し、それを粉にして金を取り出していく。1トン採ったとしても、そこに含まれる金は3から5グラムだそうで、かなりの重労働であったことが窺い知れる。
 坑道内は往時の姿を留めている。東日本大震災でも石一つ崩れなかったといい、安全で強固な岩盤を持つ。だからこそ、日本有数の金山となれたのだろう。
 見学できるのは、いわゆる中心部分。ライトアップがなされ、一つ一つに原田さん達の丁寧な説明がつく。エレベーターや坑内事務所跡、巻上げ機室など貴重な遺産を見られる他、今もまだたくさんの鉱脈を発見することができる。
「これらの坑道は、機械ではなく、全て人間が掘ったものであることを知ってほしい。それが近代日本を作ってきた。そのような苦労があったことを後世に伝え、この貴重な文化遺産を守っていきたい」と原田さん。今後も安全策を強化しつつ、多くの人へ歴史を伝えるべくガイドを続けていく。
 実際に坑道内に入ってみて感じたことだが、歴史遺産としての価値はもちろんのこと、「男の子的わくわく感」が味わえる数少ない貴重な施設であると思う。

※以上、営業当時の取材レポートになります。2021年現在営業休止中です。最新の情報が入り次第、更新いたします。

情報が古い、掲載が不適切な事項などありましたら、お問い合わせフォーム、あるいは以下コメントよりお知らせください。特に当事者の方や地元の方、何卒ご教示ください。

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