天栄村歴史民俗の旅

天栄村歴史民俗の旅

取材:2009年4月
文、写真:木村裕輔
取材ご協力:天栄村教育委員会生涯学習課、天栄村産業振興課商工観光グループ

(掲載の情報は取材時のものです。情報が古い場合や、お気づきの点がございましたらご連絡ください。メールはこちら)

さらに詳しい村の歴史については、、天栄村ふるさと文化伝承館(TEL 0248-81-1030)へ。

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民話が残る釈迦堂(しゃかどう)川

天栄村の風土や文化は、平野部に属する東部と、山間部に属する西部とで大きく異なる。今回の散策では東部から山を越え西部へと辿ることで、村全体を大きく見渡してみたいと思う。

まず鏡石町、矢吹町、天栄村の三自治体が入り組む最東部、沖内(おきうち)地区に伝わる、河童伝説である。
これは天正期(1500年代後半)の出来事であるとされ、釈迦堂川に住んでいた暴れ河童を、領主・馬場八郎左エ門(はちろうざえもん)が鎮める話。
今では河川改修が行われ、おどろおどろしい雰囲気は全くないが、沖内橋のたもとに五体の河童と八郎左エ門の像が立てられており、往時の様子をユーモラスに表現している。
付近には田園風景が広がり、空が広く感じられる。県道55号郡山矢吹線から河原を東へゆっくり歩き、沖内橋まで向かうとよいだろう。

助さん格さん?

続いて県道289号下松本鏡石停車場線に入り、すぐに辿り着くのが、飯豊(いいとよ)という地区である。ここは意外な人物と縁がある場所なのだ。
その人物とは時代劇「水戸黄門」の助さん格さんの、格さんのモデルとなった安積覚兵衛(あさかかくべえ)。
「大日本史」の編纂を行う彰考館(しょうこうかん)の総裁となった人物だ。この曽祖父に当たる飯土用藤内(いいどようとうない)が、戦国時代に現在の飯豊の城主だったとのこと。
人の縁とはどこでどう繋がっているか分からないものである。

畑の中の前方後円墳

そのまま村役場の方へ向かって西進していき、役場に至る手前で一本南の農道へ入る。すると畑の中に何やらこんもりとした一帯があることに気づく。龍ヶ塚古墳である。
今からおよそ1400年前につくられた前方後円墳で、石背国造(いわせのくにのみやつこ)第五世・建磐主命(たていわぬしのみこと)の墓と言われている。岩瀬郡内では最大の古墳だ。

激戦の山 大里城跡

また、歴史スポットとして欠かせないのが、古墳から国道294号を少々南下したところにある大里(おおさと)城(通称・牛ヶ城)だ。
天正18年、二階堂氏一門の箭田野義正(やたのよしまさ)率いる、わずか約400人程の軍が、伊達氏約一万人程の軍と戦い、戦国時代最後の籠城戦となった場所だ。
戦いについては右を参考にしてほしい。
当時は平地に舘を、山上に戦に備えた城を設けた。そのため、城といっても仰々しいものではなく、今現在は村が建てた説明板でその跡を知るばかりである。
ただ、堀らしき跡は比較的くっきりと残されているので、西側のふるさと文化伝承館から続く遊歩道を歩き、往時に想いを馳せてみるのもいいだろう。

一里塚と法燈国師(ほうとうこくし)

大里城から県道282号十日市矢吹線を西進する。
景色が山に抱かれ始め、間もなくで安養寺(あんようじ)地区だ。県道沿いには一里塚が立てられ、かつてこの辺りが会津街道の一部であったことを教えてくれる。
また、地区内には鎌倉時代の高僧で、中国から日本へ味噌の作り方を伝えた法燈国師の座像が安置されている。

焼き物の里

安養寺から山間の道を北へ向かう。現在は地区の人々の生活道路のようだが、昔はこの辺りも会津街道の一部だったのかもしれない。
国道294号に交わると、すぐ向かいが牧之内(まきのうち))宿だが、その前にもう一ヶ所立ち寄っておこう。国道の直前の道を左に曲がり、山の方へしばらく入ったところにある後藤という地区だ。ここは後藤焼という焼き物の里であった。
かつて白河から会津へ向かう会津街道沿いには、7つの焼き物があった。人の往来や、粘土質の土が採れたことが発展の理由であったのだろう。
しかし鉄道網の整備が進み、瀬戸焼など安価な焼き物が入ってくるようになると、次第に衰退を余儀なくされ、徐々にその数を減らしていった。
後藤焼も100年程前に途絶えたと言われている。
会津の本郷焼のみが残された現状は、何とも淋しい限りである。

地域を支えた「馬」

さて、牧之内宿へ行こう。ここは宿場町の風情が今も残されている数少ない場所の一つだ。間口が狭く奥行きのある家並みと、屋号が特徴。
明治の20年代から昭和の初めにかけ、毎年9月に馬の競り市が3日程開催され、その期間は「三日東京」と言われるほど大勢の人々で賑わったという。
当時は田畑を耕すにも、移動をするにも馬が必要で、人々にとってそれほど大切な動物だったということだ。
「牧之内」という地名も、「牧場」の「牧」に由来しており、当時は牛よりも馬の放牧場が多かったことから、馬のいる地=「牧之内」というように捉えることもできそうだ。馬という動物が、どうやらこの地域を語る上で一つ重要なキーワードとなっているようである。

国道294号と118号とが交わる辺りの龍生(りゅうい)という地区の観音堂には、馬がいっぱいに描かれた巻物が残されている。
ちなみに、この「龍」という言葉は名馬のことを指すそうだ。

 

木地師が暮らした集落

国道118号を西へ向かうと間もなく、長い九十九折りの坂道となる。鳳坂(ほうさか)峠だ。
かつては「這う坂峠」=「鳳坂峠」になったと言われるほどの山道。現在も急な坂道ではあるが、国道化された道が二車線幅を保ちながら、羽鳥・湯本方面へと連れて行ってくれる。

まずは羽鳥湖高原の方から見ていこう。この一帯は羽鳥湖と共にリゾート地として開発された場所だが、グランディ羽鳥湖スキーリゾートへと向かう途中に、板小屋(いたごや)遺跡と呼ばれる場所がある。
案内板のある入り口から、山道を徒歩で10分程下ると、墓碑群が見えてくる。木で加工品を作り暮らしていた人々の集落跡で、天保の大飢饉で村が消滅したと言われている。

馬頭観音座像

国道へ戻り、次は湯本地区へ。岩瀬湯本温泉については、こちらの特集記事をご覧いただきたい。
集落を見下ろす山の上に、鎌倉から室町時代の作と言われる馬頭観音座像があり、毎年7月には馬頭観音祭りが行われる。

馬入(ばにゅう)峠

最後に、県道235号羽鳥福良線で郡山市湖南町方面へ抜ける。
この道は馬入峠を通る旧鎌倉街道。峠には上杉景勝が徳川家康との戦いに備えてつくったとされる堡塁(ほうるい)跡が残されており、戊辰戦争時には会津軍が修復し、利用した。

この道について、詳しくはこちら

なお、この他にも二岐渓谷の御鍋神社、黒沢林道の安藤峠など多数の見所を有する。

取材、写真、文:木村裕輔


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