田島子供歌舞伎主要な街道筋だからこそ栄えた文化
田島の子供達が伝統を受け継ぐ

伊南川流域
歌舞伎の歴史と大桃の舞台での公演

 

取材:2010年9~10月
取材ご協力:伊南村史編纂室 河原田宗興さん、子供歌舞伎指導者 星洋一さん
文、一部写真 :木村裕輔
子供歌舞伎写真ご提供:子供歌舞伎指導者 星洋一さん
参考文献:伊南村史 第六巻民俗編
大桃夢舞台などのお問い合わせ:伊南総合支所振興課(TEL 0241-76-7715)
(掲載の情報は取材時のものです。情報が古い場合や、お気づきの点がございましたらご連絡ください。メールはこちら)

上写真:2009年鴫山城まつりより、子供歌舞伎。星洋一さんご提供。子供歌舞伎は中学生くらいの年代が中心とのこと。

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沼田街道によって栄えた伊南川流域では、かつてたくさんの歌舞伎舞台があり、人々の楽しみとなっていた。時代の流れと共に衰退を余儀なくされたが、現在は年に一度、大桃の舞台に田島の子供達が上演しにやってきている。

南会津は歌舞伎が非常に盛んな地域で、福島県内で確認されている歌舞伎舞台・一座の約半数が集中していると言われている。伊南川流域でも、現存する檜枝岐(ひのえまた)を始め、伊南、南郷など多くの歌舞伎舞台・一座が存在した。

県内で最も古い能狂言の記録が残る地域

この地域の歌舞伎は能狂言が元となっており、京都にて出雲阿国(いずものおくに)が広めた歌舞伎狂言の流れとは異なる。県内で最も古い能狂言の記録として、当時の南郷村大橋(おおはし)に住む角田藤左衛門(つのだとうざえもん)が記した「萬事覚書帳(よろずごとおぼえがきちょう)」が残されており、それにより1688年に南郷村山口、伊南村青柳で狂言が行われたことが確認されている。
古くから途絶えずに能狂言を行い、江戸中期頃からは上方で行われていたような、一般的な歌舞伎狂言も徐々に入ってきたものだと考えられる。

麻などの産業を通し、上方との交流があった

なぜこの地域で歌舞伎なのか。それはやはり経済の力が大きく影響している。
伊南川流域は麻を中心とした繊維織物業が盛んであり、江戸はもちろん、上方との行き来が頻繁であった。現在の国道401号は尾瀬の環境を守るため、群馬県との間で車道は分断されている。だが、当時は群馬と会津とを結び、人も物も頻繁に行き交う主要道であった。 歌舞伎をはじめ、多くの芸能は経済と道の恩恵を受け、この地に流入したのだ。
江戸時代は、人が集まることによる一揆の発生や、農作業への影響を恐れ、歌舞伎は禁止される方向にあったが、伊南川流域では途絶えずに続いてきた。

習い芝居と買い芝居

歌舞伎には自分達で行う「習い芝居」と、他地域からプロの一座を呼んでくる「買い芝居」とがある。初めのうちはどこも習い芝居が多く、その衰えと共に買い芝居が増えていったと見られている。
昭和20年代頃までは、習い芝居が各集落で盛んに行われていた。大桃などの常設の舞台の他、組み立て式の舞台が各所で使われ、稲刈り後の田んぼなどで上演された。
しかし、時代の流れと共に戦後は急速に衰え、舞台・一座共にほとんどが消滅してしまった。

現在、南会津町西部地域で歌舞伎を見られるのは、8月に大桃の舞台で行われる「大桃夢舞台」くらいである。これには田島の子供歌舞伎が参加している。
南会津町東部の田島は祇園祭(ぎおんさい)で知られる地域。こちらでも古くから歌舞伎が親しまれてきたが、子供歌舞伎は明治初期に教育上好ましくないとして中止されている。それが平成4年に保存会が設立され、およそ120年ぶりに復活した。
地元の経験者が講師となり、受講生を募集。毎年15人程度が集まり組織される。保育所の子供から高校生までと幅広い年代の「歌舞伎をやってみたい」という子が集まってくる。
メインとなるお披露目の場、7月の祇園祭に向けて4月からみっちり練習をする。
子供歌舞伎の指導にあたっている星洋一さんは、「何よりも部活や習い事で忙しい中、頑張ってきた子供達の姿を見てほしい」と語る。
祇園祭の後も、大桃夢舞台が続く。

歌舞伎を通し、子供達は地元に愛着を持ち、礼儀作法を身に付けていくそうだ。演目も地元に根差したものが多く、泣かせどころが多々あるとのこと。是非一度、大桃の舞台や、田島へ足を運んでみよう。

取材、文:木村裕輔

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